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連載・特集

『生きて』 広島東洋カープ元選手・監督 山本浩二さん(1946年~) <4> 野球か勉強か

家族会議で廿日市高へ

  ≪中学校で野球に打ち込み、地域で知られた存在になる≫

 佐伯郡の大会で優勝もしたから目立っていたと思うよ。4番で投手だったし、高校野球で甲子園にも憧れたし、広陵から声もかけてもらった。勉強もちゃんとやっていたから進路は迷ったよ。最終的には家族会議になって、そこで両親が「公立で勉強も」と。だから自宅から通えて、次兄も進学していた廿日市高に決めた。

 廿高は夏の広島大会でベスト4が最高成績だけど、野球学校じゃあないからね。それでも1年の夏は「3番・投手」で準々決勝までいった。制球力とカーブに自信があったのよ。2年時は初戦で負けた。監督に言われるがままのフォームで投げて球速は出たんだけど、ストライクが取れなくて。先頭から12球連続ボール。3年生には本当に申し訳なかった。

 ≪新チームで主将となり「4番・投手」。深夜に自宅庭で素振りする姿が近所の話題に≫

 最初は部員が8人。陸上部から借りて秋の大会に出て、3年生になった春に1年生が入り、14人で最後の夏に挑んだ。準々決勝まではよく投げた(34投球回で1失点)と思うよ。

 準決勝は広陵と対戦した。すると際どいコースは全部ボールなんやから。本当にひどかったなあ。あの頃はね、広陵か広島商なのよ。腹が立ったけど、仕方ないから真ん中に投げるやろ。カンカン打たれるわな。途中で交代し、再登板したけど駄目やった。1―9で大敗よ。

 ≪大会前には、実力を伝え聞いた南海の鶴岡一人監督が廿日市高グラウンドに現れる≫

 プロなんて考えたこともなかったのに、福岡の遠征帰りにわざわざ見に来てね。人生最大のガチガチよ。でも他の部員はもっと緊張したからね。打撃練習してもストライクがこんのやから。結果は「プロより大学にいった方がいいだろ」と。それで法政大に推薦してもらったのかな。廿高に入って良かったよ。

(2024年1月20日朝刊掲載)

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