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連載・特集

この人の〝反核〟 <1> 加藤周一(評論家、1919~2008年)

 文学、哲学、評論、美術などそれぞれの分野で活躍した文化人や研究者の中には、「ヒロシマ・ナガサキ」「反核」を巡る経験や認識が一つの重しとなり、言動や作品に結実した人がいる。その人物像をあらためて掘り下げることで、今なお紛争が絶えず、核兵器廃絶を果たせない現代社会への問いかけとしたい。(編集委員・道面雅量)

「全人格」に向き合う体験

医師として被爆地で活動

 著書「日本文学史序説」「羊の歌―わが回想」などで知られる評論家の加藤周一は、国内外の大学の教壇に立ちつつ、文芸や政治などジャンルを横断した論考や時評を精力的に発表。「戦後日本を代表する知識人」と呼ばれた。

 元々は血液学を専門とする医学者だった。評論・作家活動に専念するのは、30代後半の1958年から。その決断には、51年から約3年間のフランス留学で西欧文化に触れたことが大きく作用したと思われるが、もう一つ挙げることができる。45年10~11月、被爆直後の広島での体験だ。

 95年8月6日、被爆50年の節目を迎えた広島市で、加藤はその体験をつぶさに語っている。市と広島平和文化センターが主催した「ヒロシマ・地球市民フォーラム」にパネリストの一人として登壇。焦土の広島に立った記憶をたどった。

 当時20代半ばだった加藤は、東京帝国大(現東京大)の医学部付属医院に所属。連合国軍総司令部(GHQ)の指令で組織された原子爆弾影響日米合同調査団に加わり、同大の都築(つづき)正男教授らと広島で被爆者の診察に当たった。

 「広島は完全に平らでした。所々に立っている黒い木と、崩れたコンクリートの壁のほかには―」。フォーラムの席上で、当時見た光景の衝撃を語った加藤。続いて説いたのは「医師としての科学的調査研究と、苦しんでいる人に同情するとか、その人を人間として扱うこととの矛盾」だった。

 「患者はあとからあとから送られてくる。これを冷静に観察し、記録し、分析した方が調査には都合がいい。しかし、苦しんでいる人と出会うことは人間的な感情を伴う」「これを一般化すれば、科学的な合理性と人間的、感情的反応との間には、矛盾が出てくることがある」

 「この体験は、私の中にずっと残った。たぶん今も残っている」…。理知と感情の間を揺れ動くような長い告白は、被爆50年の広島という時空がさせたものだったろう。

 加藤が客員教授を務めた京都市北区の立命館大には「加藤周一現代思想研究センター」がある。没後に寄贈された蔵書や遺稿類を研究、活用する機関として2015年に設立された。

 遺稿の中に、被爆50年のフォーラムに備えた英文主体のメモが残されていた。「science research and human sentiments(科学的調査と人間の感情)」「rationality VS heart(合理性と心の対立)」。当日語った内容の核心が記されている。

 加藤にとってのヒロシマ体験の重みとは―。編集者として加藤の著作の出版を手がけ、現在、同センター顧問を務める鷲巣(わしず)力さん(79)は「医業をやめる理由の一つになったのは間違いない」とみる。

 「全人格的な『人間』が被爆した事実と、被爆者を『症例』として見ざるを得ない医師であることの絶望的な落差に、広島で直面した」。加藤は、この落差の意味をつかみ出す知性と、痛みとして受け取る感性の持ち主だった。「人間をトータル(全体)で見据える文学へ向かう理由も見えてくる」と鷲巣さん。加藤は、鋭い分析力と論理性を人文学の論考にも発揮し、国際的な評価を得ていった。

 加藤は04年、第9条を焦点として日本国憲法の平和主義を擁護する「九条の会」の結成を主導する。作家の大江健三郎(1935~2023年)らと呼びかけ人に名を連ね、80代半ばにして全国への講演行脚をいとわない決断をした。

 9条堅持の主張は、現実離れした理想主義という批判も浴びる。しかし、同会事務局長の小森陽一さん(70)は「加藤さんは日本の戦後史、当時の政治状況を論理的に分析し、現実的な判断によって運動を起こした」と説く。「被爆直後の広島を知る者として、傍観者ではいられなかった」と推し量る。

 加藤は「九条の会」の講演で、ラテン語で伝わる格言「平和を望むなら戦争に備えよ」を言い換えてみせた。「戦争の準備をすれば、戦争になる確率が大きい。平和を望むならば、平和の準備をした方がいい」

 加藤が没して15年を経た今、日本政府は「厳しさを増す安全保障環境」を理由に防衛費の大幅増に踏み出している。それを冷徹に見通していたような加藤の警句はしかし、戦争ではなく平和に備えようとする人々へのエールでもある。論理と心が宿っている。

かとう・しゅういち
 東京都出身。東大医学部卒。「雑種文化」論など、日本文化の解釈に新しい地平を切りひらいた。上智大、立命館大のほかカナダ、ドイツ、米国などの大学で教えた。写真は1995年、広島市での「地球市民フォーラム」登壇時。

(2024年1月23日朝刊掲載)

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