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連載・特集

『生きて』 広島東洋カープ元選手・監督 山本浩二さん(1946年~) <6> カープ入団

年中やらされた猛練習

  ≪3番富田、4番田淵、5番山本は「法政三羽がらす」と呼ばれ、大学通算は打率2割9分3厘、8本塁打。1968年11月のドラフト会議でカープから1位指名を受ける≫

 ずっとカープに入りたかったからね。神宮球場でカープの試合を見ていたし、寮ではラジオも聞いていた。ドラフト1位は帰省していた実家への電話で知った。ブチ(田淵幸一)は阪神、富田(勝)は南海の1位指名を受けたけど、希望球団からはわしだけだった。

 契約金は1千万円、年俸180万円で規定の上限。少し前には他球団で高校生の1位に契約金5千万円とかあったみたい。ドラフトの導入は戦力均衡と契約金の抑制が目的だから仕方ないよなあ。契約金は両親に渡した。五日市に土地を買ってくれたんだけど、2、3年後におやじが保証人になって会社がつぶれて、なくなったよ。あの頃は給料も残ってなくて、月末に生活費が500円とかあったね。

 ≪1年目は打率2割4分、12本塁打。根本陸夫監督から「計算より2分ほど打率が低い」と評され、鍛錬の日々が始まる≫

 根本さんは、わしと水沼(四郎)が入り、キヌ(衣笠祥雄)やジンちゃん(水谷実雄)、ミム(三村敏之)とともに何年か先に優勝を争えるチームをつくろうとしたみたい。広岡達朗さんや関根潤三さんをコーチで呼んで、年中鍛えられた。これがもう怖い怖いコーチやった。

 一番は秋の猛練習。あれほど苦しい思いは後にも先にもないね。全体練習後は毎日、打撃を1時間ぶっ通しでやらされるのよ。マシンを相手にバットを振り続け、ヘトヘトになる。それでも打ち続けると、無駄な力の入らないフォームを体が覚えていくのよ。するとポーンと打ったのがスタンドに入る。後から思えば、知らないうちに打ち方をつくられていったね。

 打ち終わるとバットを握る指の感覚がないのよ。滑り止めした指を一本一本離したなあ。

(2024年1月24日朝刊掲載)

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