×

社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 客員特別編集委員 佐田尾信作 ビキニ水爆被災70年

船乗りと家族の苦難に思いを

 1954年3月1日、中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で米国がひそかに水爆実験を行い、日本漁船延べ約千隻が被災した。23人の被曝(ひばく)が帰港後判明したのは静岡県焼津市のマグロ漁船・第五福竜丸。無線長久保山愛吉の病状急変と死に全国民が注視し「昭和萬葉集」には〈久保山さん久保山さんとわが祖母は縁者のやうに日々口にする〉といった社会詠が多数収録された。原水爆禁止運動に火をつけた歴史的な事件である。

 だが、元乗組員や家族の苦難はどれほど語られてきたのだろう。彼らの手記や評伝、当時の新聞記事、「ビキニ水爆被災資料集」などを読み、振り返ってみたい。

 いち早く入院先の東京大病院で「米国の賠償責任」を口にしたのは、戦時徴用と拿捕(だほ)の経験を持つ元甲板員鈴木鎮三(82年死去)だった。妻静枝も「世界の強国アメリカよ、人類自然自滅に陥る原子兵器とは縁を切って下さい」と手記で訴え、54年焼津を訪れた原爆資料館初代館長長岡省吾に託した。だが鎮三は「不良患者」扱いされ、退院後の商売も失敗して一時は失踪したと報じられた。静枝の手記は事件から半世紀を経た2005年に第五福竜丸展示館(東京・夢の島)では初めて公開されたのである。

 久保山すずは夫の死後、世間の同情がねたみに変わって苦しんだ人だった。日米の「補償金」による政治決着で100万円単位の金額が新聞の見出しになると「うまくやってやがら。こんな出迎え(漁民葬)なんて焼津始まって以来だ」「ウチの宿六(亭主)なんて(だって)灰なめて死んじまえやエエダニよ」といった陰口が聞かれたと当時の雑誌ルポなどにある。

 原爆症には何の補償もない、見舞金を分けてほしい―と広島からの手紙も舞い込む。当時の焼津は漁船員の夫を戦場で亡くした女性が多く、広島は国の被爆者援護政策もない時代。あろうことか、苦境にあった庶民の怨念がすずに向かっていく。彼女が国際会議で原水爆を告発しようとすると日米の政府筋が横やりを入れた。原水禁運動の分裂にも巻き込まれて64年の夫の墓前祭は騒然とし、焼津では個人への風当たりが増した。

 それでも93年に72歳で亡くなるまで旧ソ連の核実験場周辺の被災住民に思いをはせ、初心を貫いたという。「あんたっちの運動が子どもや孫を守っている」と励ましてくれた焼津市民もいたほか、家族の理解が支えになっていた。

 一方、83年に初めて展示館で証言したのは冷凍士だった大石又七(21年死去)。逃げるように上京、ひっそり暮らそうとしていたが、都内の中学生に懇願されて渋々応じ、視覚障害のある女子生徒のために福竜丸の模型も製作する。これがテレビ報道されると証言の依頼が相次ぎ、断れなくなったという。晩年の大石をよく知る展示館学芸員の市田真理は「大石さんほど真剣に憤る大人を見たことがありません。何も言えずに死んだ仲間の無念を晴らす、という思いが怒りのテンションを下げなかったのです」と振り返る。

 漁労長見崎吉男(16年死去)は自ら「漁士」と称し、遠洋航海を指揮した責任を背負った生涯だった。乗組員を被曝させて失業させ「原爆マグロ」の風評で焼津に迷惑をかけた、と受け止めていた。市田によると、発言に慎重だった見崎が語り始めるのは03年の静岡新聞連載記事、06年の手記集「千の波 万の波」の取材や編集に応じた頃だという。帰港直後の新聞報道や米物理学者のルポ、焼津市の資料展示への違和感をつづりながらも「ただ一つこの事件が大きな出発点を与えたのは日本の平和運動でした」と断言していた。

 大石も見崎も本心を公にするまでに事件から数十年の歳月を要した。秘めた情念を次世代が解き放った。「知りたい」という素朴な問いが沈黙を破ったのである。

 今、元乗組員で健在な人は2人だけだ。息災を願いたいが、福竜丸を巡る記憶の継承はやがて当事者なき時代を迎える。市田は「広島の被爆体験伝承者のような活動はできない。事件後の日米外交の内幕やマーシャル諸島の人々の核被災の現実を含めた私の語りに、大石さんたちの語りを重ねていくことになるでしょう」と言う。

 保存・公開されている船体もよりどころである。事件を「なかったこと」にはさせない、動かぬ証拠。47年に和歌山県串本町でカツオ漁船として建造されて77年になる。魚槽に氷を詰めて赤道直下まで航海した洋式木造船はほかに現存せず、建造されることもない。見崎の言葉を借りれば「漁士」の誇りの証しといえよう。

 高知県のマグロ漁船も被災している。83年に発足した幡多高校生ゼミナールが、長崎とビキニで二重に遭難した末に自死した元漁船員を追跡調査して光が当たった。現在、高知の元漁船員たちは船員保険の適用(労災認定)を求める訴訟を東京地裁に起こし、憲法29条に基づいて損失補償を求める訴訟を高知地裁に起こしている。

 筆者は一昨年、室戸市で訴えを聞き、いかに水爆被災の事実が軽んじられてきたかを痛感した。ビキニ事件は歴史に刻むべきだが、終わってもいない。それを広く伝える70年の節目にすべきだろう。(文中敬称略)

(2024年1月25日朝刊掲載)

年別アーカイブ