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連載・特集

『生きて』 広島東洋カープ元選手・監督 山本浩二さん(1946年~) <9> 赤ヘル旋風

球宴の2発 人生の転機

 ルーツ監督が就任した1975年は打撃練習がメジャー式になってね。ローテーションの1回が7スイングで7本目を打ったら走る。それを6回り。すぐに終わるんだけど、集中力を付けるのに良かった。わしはずっと狙った一球を一振りで仕留めるのが目標だったから合っていたね。でも、それでは足りないから終わってから別に打つ。やらされる練習から考える練習に変わっていったよ。

  ≪同年7月。出場3回目の球宴が野球人生の転機という≫

 全てはオールスター、甲子園の。与那嶺要監督(中日)のおかげなんよ。第1戦でわしが3番、4番は王(貞治)さん、5番にブチ(田淵幸一)のクリーンナップを組んでくれた。うれしかったねえ。あの試合で6番のキヌ(衣笠祥雄)とともに2打席連続本塁打を打って、ものすごい自信になった。最も印象深い本塁打だよ。打撃技術と精神面で手応えがあったからね。

 ≪大舞台で力を発揮するため、自ら度胸付けを課してきた≫

 対抗心ってあるじゃないか。昭和40年代はぺーぺーで優勝経験はないし、歌もゴルフも下手やのに、東京の連中に負けるもんかと、オフは上京して番組に出てたからね。恥をかくし、恥ずかしかったよ。でもね。全ては度胸を付けるため。そこで他球団の主力と話をし、性格や人間性を知ろうとした。相手を知って、次の年に対戦すれば気持ちが違う。ずっと王さんやミスター(長嶋茂雄)のランクにいきたい思いもあったからね。

 ≪球宴後は4番に定着。打線をけん引し、チームは8月7日に単独首位に浮上した≫

 それまで3年連続で最下位やろ。優勝なんて全く考えてないし、シーズン終盤なんて、みんな自分の成績だけだったよ。でもあの年は違った。オールスター明けから「赤ヘル旋風」といわれて、初めて味わうのよ。優勝争いの苦しさを。

(2024年1月30日朝刊掲載)

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