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連載・特集

放置された遺骨 長生炭鉱水没事故から82年 <上> 朝鮮人犠牲者

 戦時中、宇部市の海底の下に延びた炭鉱で水没事故が起きた。作業員183人が死亡し、その7割強の136人は朝鮮人だった。犠牲者は引き揚げられぬまま、今も海に眠る。3日で事故発生から82年。遺族や市民グループは国に対し、遺骨の発掘と返還を訴え続けている。(山下美波)

絶叫と恨み 遺族の胸に

遺構 無言のメッセージ

 山口宇部空港に近い同市西岐波の海岸。砂浜から数十メートル先の海面に二つのコンクリート柱が突き出ている。「ピーヤ」と呼ばれる坑道の排気・排水筒跡である。普段は穏やかなこの海の下に長生(ちょうせい)炭鉱はあった。

 昨年12月8日、東京の衆院議員会館。市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(宇部市)と韓国遺族会のメンバーが、厚生労働省の担当者と向き合っていた。

坑口閉じたまま

 「ピーヤは遺族に無言のメッセージを送っている。あの日の絶叫と恨みに満ちた声が胸に突き刺さるようだ」。韓国遺族会の楊玄(ヤン・ヒョン)会長(76)は訴え、犠牲となった叔父の楊壬守(ヤン・イムス)さん=当時(20)=たちの遺骨発掘を求めた。5年ぶり3度目となった刻む会と国の意見交換の場に韓国の遺族が加わるのは初めてだった。

 1942年2月3日朝、長生炭鉱の坑道で「水非常」と呼ばれる水没事故が起きた。陸上部の坑口から約1キロの地点だった。刻む会によると当日は「大出しの日」で、坑道の天井を支えていた「炭の柱」も採ったことが一因とされる。作業員を残したまま坑口は翌4日に閉じられたとみられ、現在まで開けられていない。事故後も別の坑口を開けて採炭は続き、戦後に経営会社は廃業した。

 長生炭鉱は朝鮮半島出身者が労働の主力だった。宇部市史(93年発行)は「強制連行された朝鮮人労働者の悲劇」「長生炭鉱は特に坑道が浅く、危険な海底炭鉱として知られ、日本人鉱夫から恐れられたため朝鮮人鉱夫が投入されることになった模様であり、その当時『朝鮮炭鉱』と蔑称された」と記す。

馬小屋で暮らす

 国との意見交換で、刻む会は遺族の手紙も紹介した。父の全聖道(チョン・ソンド)さん=同(42)=を亡くした全錫虎(チョン・ソッコ)さん(90)は事故後に社宅を追われて友人宅の馬小屋に家族で住み、戦後は帰国して奉公に出た。「友人が学校に行く姿を見ながら私は山で木を拾う仕事をした。泣いて父を恨んだが、父には何の罪もない」とつづる。

 ある遺族の元には長生炭鉱の様子が記された手紙も残る。金元達(キム・ウォンダル)さん=同(27)=が事故の前に母に送った。

 「垣根は3メートルほどの厚い松の板で囲ってあり、その外側をぎっしりと鉄条網が張り巡らされています。その囲いの中にある宿舎はまるで捕虜収容所のようなところです」「暴力を振るわれ食事もろくにもらえず、空腹で過ごす日々が多くあります」―。そして、こう締めくくる。「必ず脱出して、必ずお母さんのところに帰ってきます」

 亡きがらは宇部の冷たい海にある。

宇部市の炭鉱業 東西約10キロに分布した炭田は「宇部炭田」と呼ばれ、江戸前期には既に採炭されたとみられる。江戸中期から瀬戸内海一帯の製塩業に石炭が利用され、明治期の産業化で炭鉱業が発展。海底の石炭層からも採られ、都市化した当時の宇部村は町制を経ず市制が施行された。宇部炭田は最盛期の1940年に423万トンを採炭したが、石油へのエネルギー転換の影響で67年に閉山した。

(2024年2月1日朝刊掲載)

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