父の被爆知る女性と初対面 広島文理科大 南方留学生の長男 マレーシアから来日 足跡たどる
24年2月5日
広島文理科大(現広島大)で被爆した「南方特別留学生」だったマレーシア出身の故アブドル・ラザクさんの長男ズルキフリさん(72)が、父の足跡をたどろうと広島市を訪れた。ラザクさんと被爆後に避難生活を送った被爆者と初対面。混乱を極めた中でも留学生と市民が励まし合い、懸命に生き延びたさまに思いを巡らせた。(新山京子)
「会えてうれしい」「被爆後に病気はしませんでしたか」。1月末、安芸区の原爆養護ホーム「矢野おりづる園」。ズルキフリさんはここに暮らす栗原明子さん(97)を訪ね、通訳を介して語りかけた。栗原さんは「お父さんとよく似ているわ」と声を弾ませた。
栗原さんは1945年のあの日、学徒動員先の東洋工業(現マツダ)で原爆に遭った。大手町(現中区)の自宅は全焼。文理科大の校庭で約1週間、留学生たちと過ごしながら行方不明の父親を捜し歩いた。「ラザクさんには一番親切にしてもらった。食糧を分け合い、一緒に野宿もした」と記憶を手繰り寄せた。
当時ラザクさんは20歳。授業中に被爆し、倒壊した木造校舎からはい出て助かったという。爆心地から約1・5キロ。戦後は母国で日本語教育の発展に尽力した。広島大から名誉博士号を授与された2013年、88歳で亡くなった。
「父は毎年8月6日になると家族を集めて、体験を話してくれました。女学生たちをいかだに乗せて、何とか助け出そうとしたそうです」。ズルキフリさんは原爆資料館も見学し、「生前に聞かされた状況が、映像を見るように分かる」と語った。外国人被爆者のコーナーでは、自身が提供した1945年撮影のラザクさんの写真や展示説明に見入った。
首都クアラルンプールにあるマレーシア国際イスラム大で学長を務めるズルキフリさん。父親の体験をもっと知りたいとの思いが募り、南方特別留学生の歴史を掘り起こしている広島の市民団体を頼った。家族で被爆地を訪問し、栗原さんとの面会がかなった。ラザクさんたちが暮らした寄宿舎「興南寮」(現中区)跡にも足を運んだ。
南方特別留学生はラザクさんの他に7人が被爆し2人が犠牲になった。生きて母国に帰った人も既に物故者。ズルキフリさんたちの世代が記憶を受け継いでいる。
栗原さんから「戦争は反対。核兵器なんて造らず、助け合って暮らすことが大切」と言われたズルキフリさんは「父と栗原さんの被爆体験や平和の大切さを、私の子どもや学生たちに必ず語ります」と応えた。手を握り、再会を誓った。
南方特別留学生
太平洋戦争中の日本が設けた東南アジアを対象とした国費留学制度で、「大東亜共栄圏」構想の一環。1943~44年に現在のインドネシアやマレーシアなどから選抜された約200人が来日し、日本各地の大学などで学んだ。原爆投下時は広島文理科大に9人が在籍し、サイド・オマールさんとニック・ユソフさんが犠牲になった。
(2024年2月5日朝刊掲載)
「会えてうれしい」「被爆後に病気はしませんでしたか」。1月末、安芸区の原爆養護ホーム「矢野おりづる園」。ズルキフリさんはここに暮らす栗原明子さん(97)を訪ね、通訳を介して語りかけた。栗原さんは「お父さんとよく似ているわ」と声を弾ませた。
栗原さんは1945年のあの日、学徒動員先の東洋工業(現マツダ)で原爆に遭った。大手町(現中区)の自宅は全焼。文理科大の校庭で約1週間、留学生たちと過ごしながら行方不明の父親を捜し歩いた。「ラザクさんには一番親切にしてもらった。食糧を分け合い、一緒に野宿もした」と記憶を手繰り寄せた。
当時ラザクさんは20歳。授業中に被爆し、倒壊した木造校舎からはい出て助かったという。爆心地から約1・5キロ。戦後は母国で日本語教育の発展に尽力した。広島大から名誉博士号を授与された2013年、88歳で亡くなった。
「父は毎年8月6日になると家族を集めて、体験を話してくれました。女学生たちをいかだに乗せて、何とか助け出そうとしたそうです」。ズルキフリさんは原爆資料館も見学し、「生前に聞かされた状況が、映像を見るように分かる」と語った。外国人被爆者のコーナーでは、自身が提供した1945年撮影のラザクさんの写真や展示説明に見入った。
首都クアラルンプールにあるマレーシア国際イスラム大で学長を務めるズルキフリさん。父親の体験をもっと知りたいとの思いが募り、南方特別留学生の歴史を掘り起こしている広島の市民団体を頼った。家族で被爆地を訪問し、栗原さんとの面会がかなった。ラザクさんたちが暮らした寄宿舎「興南寮」(現中区)跡にも足を運んだ。
南方特別留学生はラザクさんの他に7人が被爆し2人が犠牲になった。生きて母国に帰った人も既に物故者。ズルキフリさんたちの世代が記憶を受け継いでいる。
栗原さんから「戦争は反対。核兵器なんて造らず、助け合って暮らすことが大切」と言われたズルキフリさんは「父と栗原さんの被爆体験や平和の大切さを、私の子どもや学生たちに必ず語ります」と応えた。手を握り、再会を誓った。
南方特別留学生
太平洋戦争中の日本が設けた東南アジアを対象とした国費留学制度で、「大東亜共栄圏」構想の一環。1943~44年に現在のインドネシアやマレーシアなどから選抜された約200人が来日し、日本各地の大学などで学んだ。原爆投下時は広島文理科大に9人が在籍し、サイド・オマールさんとニック・ユソフさんが犠牲になった。
(2024年2月5日朝刊掲載)