放置された遺骨 長生炭鉱水没事故から82年 <中> 市民団体
24年2月2日
e="font-size:106%;font-weight:bold;">古里へ返還 掲げた目標
毎年集会 追悼碑も建立
長生炭鉱の遺構「ピーヤ」を望む宇部市西岐波の砂浜から海沿いの道を10分ほど歩くと、「長生炭鉱追悼ひろば」の看板が見えてくる。
市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が広場を整え、戦時中の水没事故の犠牲者を悼む碑を建てたのは会発足から23年目の2013年だった。「会員には達成感があった。でも、それがいかに自己満足だったかを痛感した」。刻む会の共同代表を務める井上洋子さん(73)は振り返る。
遺族 厳しい指摘
刻む会は、長生炭鉱を研究していた元高校教諭の山口武信さんたちが1991年、資料・証言の収集▽ピーヤの保存▽追悼碑の建立―の三つを目標に掲げてつくった。同年秋、犠牲者の7割強を占める朝鮮人136人のうち、118人の関係先に手紙を送付したことをきっかけに韓国遺族会が結成された。93年からは毎年、事故発生日である2月3日か前後に遺族を宇部に招き、追悼集会を開いてきた。
広場とピーヤを模した追悼碑は、市民からの寄付金約1600万円で実現した成果だった。だが、韓国の遺族からは予想外の厳しい指摘を受けた。「これで活動を終わりにしようとしていないか。私たちは遺骨を古里に持って帰りたい」―。以来、海底に眠る遺骨の発掘と返還が新たな目標となった。
追悼碑建立から2年後の15年には、地下空洞の電気探査の専門業者に依頼し、戦後埋められた坑口の場所を特定する調査を約150万円かけて実施。坑口と一部の坑道の位置が判明した。
若い世代に継承
刻む会の創設メンバーの山口さんは既に亡くなった。現在約500人の会員でただ一人、発足時から活動する井上さんは力を込める。「無念の死を遂げた犠牲者の遺骨を暗闇から掘り出して尊厳を取り戻し、遺族を慰めたい」
思いは若い世代にも継承されつつある。昨年2月、宇部市の市民団体BIYP韓国青少年交流実行委員会が開いた交流会の一環で、韓国から訪れた中学生約20人と日本の若者約20人が追悼集会にも参加した。
その一人の永藤諒さん(19)は当時、宇部市に隣接する山口市の高校3年生だった。「歴史への無知を自覚した。遺族の姿を見て戦争はまだ終わっていないと思った」。今は留学生を多く受け入れている県外の大学で学ぶ。K―POPを通して韓国に親しみを抱き、交流会と追悼集会に参加した宇部市の中学3年武波綾さん(15)も「好きな気持ちだけでなく、歴史を知ることも大切」と感じるようになった。「一人残さず遺骨を取り出したい。若者がなんとかしないといけない」
今年も3日に追悼ひろばで集会がある。1年前、同じ場所では韓国の中学生が犠牲者の眠る海に向け、メッセージカードを掲げた。日本語と韓国語でこう書かれていた。「地上でお会いしましょう」(山下美波)
(2024年2月2日朝刊掲載)