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『生きて』 広島東洋カープ元選手・監督 山本浩二さん(1946年~) <10> 号泣 球団築いた先輩へ感謝

  ≪1975年は終盤に中日、阪神と首位争い。9月以降を17勝4敗4分けで初優勝へ走る≫

 毎日、がむしゃらにやるだけだった。自分が打てない時はベンチで「誰か打ってくれ」と祈っていた。そんな気持ちになるのは初めてだし、みんな心身ともに疲れ果て、試合には点滴して挑んでいた。もうとにかく必死なのよ。そしたらどんどん一体感が生まれてきたよな。

 夏場の遠征で試合に負け、宿舎に帰るバスでね、車内が沈黙してたら、確か(監督の)古葉(竹識)さんが「誰か歌え」と。裏方さんが歌ったんだけど、これが下手で下手で。みんなで大笑いしたよ。とにかく明るくすることに苦心してたなあ。

 ≪10月15日の巨人戦(後楽園)をマジック1で迎える≫

 「勝てば優勝」。それは分かっていたからか、試合前のロッカーでは誰もしゃべってなかった。ただでさえ緊張しているのに口を開けば、重圧で体が動かなくなると思ったんだろうな。

 外木場(義郎)さんが先発でフル回転して、打線は1番の大下(剛史)さんが出て、3番のホプキンスが勝負強かった。あの九回の3ランで勝ったと思った。ここ一番で点を取れる強さがあったよな。

 優勝の瞬間はおぼろげなんだけど、泣いたよ。そこはよく覚えている。わしは生まれも育ちも広島で、物心がついた頃からカープファン。憧れたチームに入って、初優勝の一員になれた。それは、先輩たちが原爆で焦土となった広島にカープを築き、つなげてきてくれたからこそなんだ。あの涙にはそんな感謝の思いがあった。古葉さんの胴上げの後、キヌ(衣笠祥雄)と初めて抱き合ったなあ。

 ≪首位打者を獲得した≫

 優勝に勝るものはないし、タイトルを意識したのは翌日。チームも協力してくれて取れるものならとね。結果、MVPも取れて、タイトルの重みも知った。余裕というか、新たな自信が生まれたね。

(2024年2月3日朝刊掲載)

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