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社説・コラム

『今を読む』 ユダヤ人学校の記憶とガザ ナスリーン・アジミ

共存へ 多様性と包摂性を

 私はイランの首都テヘランのエッテファク校へ1970年に入学し、トルコへ移り住むまで5年間の高校生活を送った。テヘラン大に近接しており、今もアールデコ調の校舎が立つ。元はイラクから逃れてきたユダヤ人によって開設された男女共学校である。

 生徒約2千人のうち約20%は非ユダヤ教徒だった。イスラム教、ゾロアスター教、キリスト教など異なる宗教の生徒が共に学んだ。イスラム教徒の家庭で育った私だが、ユダヤ人同級生との違いはヘブライ語の授業がないことだけ。一緒にシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に行くのが楽しかった。多文化教育は学校に限らない。両親はあらゆる宗教的少数派を尊び、多様性を重んじた。

 私はホロコースト(ユダヤ人大虐殺)について知ろうとした。米国のユダヤ系作家レオン・ユリスの「エクソダス 栄光への脱出」をむさぼり読んだ。76年、航空機ハイジャック事件の乗客を救出した「エンテベ空港奇襲作戦」で現イスラエル首相の兄のネタニヤフ大佐が落命した時は、涙した。イラン人にとって、イスラエルが手がけたネゲブ砂漠の緑化は自国のお手本に思えた。

 エッテファク校は当時のイラン社会を映す小宇宙だったと思う。「中東の日本」として近代化を模索する国だった。だが79年のイスラム革命で、世俗的で先進的な国への道は崩壊。ユダヤ人同級生の多くが米国や欧州などへと逃れていった。

 後に私は国連に奉職し、ヨルダン川西岸やガザで働く同僚を通じてパレスチナ人の苦境を知るようになる。作家のエドワード・サイードの語りからは、欧州におけるホロコーストの罪を背負わされるも同然に、パレスチナ人が土地を追われた悲劇を痛感した。ガザ出身の人権派弁護士ラジ・スラーニ、イスラエル人ジャーナリストのアミラ・ハスら勇気ある人物からも多くを知った。

 一方で、イスラエルとパレスチナ国家の共存で合意した93年の「オスロ合意」当時のラビン首相やペレス外相らイスラエルの閣僚は、祖国のため頑として戦うと同時に、人間的であり、平和を自らの手で遠ざけることはしなかった。

 ところが近年、イスラエルの政治と社会は変質している。ネタニヤフ首相はパレスチナ人の命を軽んじ、入植地拡大を進める極右派を政権に取り込んでいる。

 昨年10月7日、イスラム組織ハマスが約1200人のイスラエル人を殺傷、誘拐するというおぞましい事件が起こった。イスラエルに住むかつての級友とその親類の安否を案じた。そして直後に、さらなる悪夢が始まった。イスラエルによるガザの学校、病院、モスク、難民キャンプへの連日の攻撃である。

 極限的な困難と屈辱を強いられてきたパレスチナ人が、再び家を追われている。どこに行けというのか。愛する者が殺され、手足を失った傷を目の当たりにした者の悲しみと怒りは、どれだけ新たな暴力の連鎖を生むのか。

 問題は複雑で終わりがみえない。ただ、イスラム教とユダヤ教双方の優しさ、賢明さと包摂性をエッテファク校で学んだ私が思うのは、元凶は宗教自体ではなく、自らのため宗教を悪用する指導者だということだ。シリアのアサド大統領やイランのライシ大統領は、自国民の弾圧に手を染めながらパレスチナ人の人権を語る。彼らはイスラム教を代表していない。汚点でしかない。同様に、イスラエルの暴力的な入植者や極右派はユダヤ教にとって汚点だ。ユダヤ教を代表していない。

 歴史はあらゆる排斥や憎しみを重ねてきたが、寛容さでもって「他者」を受け入れた時代は常にある。多様性と包摂性こそが、コミュニティーや国を豊かにする。

 先日、原爆ドーム前で市民がキャンドルをともして集会を開いていた。ユダヤ教徒の女性がヘブライ語、イスラム教徒の男性がアラブ語で祈り、手をつなぎ、共に泣いていた。政治指導者たちは若い世代にこれだけの苦痛を与えているのだ。

 無慈悲な独裁者はもうたくさん。宗教の悪用を見せられるのも、たくさんだ。エッテファク校のような、全ての人間の尊敬と尊厳、公正と平等を求める。この単純かつ明白な真実と英知を理解されないなら、数千年の文化と歴史が持つ意味とは、一体何なのだろうか。

 1959年イラン生まれ。86年ジュネーブ国際問題研究所で修士号取得(国際関係学)。国連訓練調査研究所(ユニタール)ニューヨーク事務所長などを経て2003年に広島事務所長。特別上級顧問も務めた。現在、被爆樹木を世界に届けるグリーン・レガシー・ヒロシマ・イニシアティブ(GLH)コーディネーターとして活動。

(2024年2月3日朝刊掲載)

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