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三次の被爆石柱 移設の謎を調査 広島の美術作家 菅さん 縮景園⇨塩町中 新証言も

 三次市の塩町中にあり、50年以上前に広島市内から移設されたとされる被爆石柱の来歴について、広島市在住の美術作家、菅亮平さん(40)が調べている。手掛かりは移設時に作られたとみられる説明板などわずかで、誰がどんな経緯で移設したのかは謎だ。菅さんは「被爆による歴史の空白を埋めたい」と話す。

 石柱は花こう岩製で2本あり、それぞれ高さ約3・5メートル。説明板などによると、戦前は旧広島藩主浅野家の宝物を集めて縮景園内に設けられた観古館(現広島市中区)の門柱だった。被爆を経て1971年、同中が現在地に移転した際、正門として移設されたという。藤井清美校長は「原爆ドームと同じように平和の尊さを考える教材となっている」と強調する。

 菅さんは広島市立大講師。昨年7~9月、縮景園の歴史をテーマに広島県立美術館(中区)で開かれた展覧会に参加。石柱を題材にした映像作品を出品した。展覧会後も同中関係者や住民に聞き取りを重ねている。

 これまでの調査によると、広島市平和文化センターの初代局長を務めた田淵実夫さん(1991年に82歳で死去、三次市出身)が移設に関わった可能性が高いという。当時の卒業生の親族が縮景園に勤務し、園長から「移設は田淵さんの意向」と聞かされたとの証言を得た。田淵さんは被爆資料や遺構の保存に尽力しており、菅さんは「復興の進む広島で忘れられそうだった石柱の重要性に着目したのだろう」と推測する。

 菅さんは引き続き移設の経緯に関する証言を募っている。近く調査結果をまとめ、27日から3月10日まで広島市中区のギャラリーGで開く個展で発表する予定にしている。ギャラリーG☎082(211)3260。(城戸良彰)

(2024年2月8日朝刊掲載)

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