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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 近藤康子さん―4歳で歩いた焦土の街

近藤康子(こんどうやすこ)さん(83)=広島市西区

苦しんだ急性症状。 自分も話さねば

 近藤(旧姓木下)康子さん(83)は、原爆が投下された翌日から数日間、乳飲み子を抱(かか)えた母親に手を引かれ、焦土(しょうど)の街を歩き回りました。まぶたの裏(うら)に焼き付いたその記憶と、被爆後に体調不良に苦しんだ体験を修学旅行生たちに語っています。

 1945年当時、母と生後9カ月の妹と田中町(現広島市中区)で暮らしていました。南方の戦地にいた父とは離(はな)ればなれです。4月ごろ、空襲(くうしゅう)を避(さ)けるため高須(現西区)の親戚宅に移りました。

 あの日、4歳だった近藤さんは近くの小川で遊んでいました。突然(とつぜん)ピカッと光り、ドーンという衝撃音(しょうげきおん)を感じました。爆心地から約3・5キロ。とっさに体を伏(ふ)せました。

 その直後、駆(か)けつけた母親に抱(だ)きかかえられ、防空壕(ぼうくうごう)へ。妹は目を白黒させながら苦しんでいます。母親が口に手を入れると、ガラス片が次々と出てきました。妹の口元と母の手は、血に染(そ)まりました。

 しばらくすると、市中心部から多くの人が逃(に)げてきました。やけどで皮膚(ひふ)がぶら下がり、腕(うで)を突(つ)き出して目の前をぞろぞろと歩いていきます。道ばたのお地蔵さんのそばに座(すわ)り込(こ)んだ人が、話しかけてきました。「嬢(じょう)ちゃん、水をください…」。焼けた全身から絞(しぼ)り出されたうめき声。でも、「幼(おさな)い私には何もしてあげられなかった」。今も悔(く)いています。

 7日朝、田中町の自宅に母子3人で向かいました。市中心部に入るとがれきや壊(こわ)れた橋に阻(はば)まれて、前に進めません。ときに死体や白骨をげたで踏(ふ)みながら歩きました。8日か9日にたどり着いた自宅は、跡形(あとかた)もなく焼け落ちていました。

 御幸橋から小船に乗り、呉市内の祖父母宅に身を寄せました。間もなく、姉妹とも高熱と下痢(げり)に襲(おそ)われました。血便が出て、肛門(こうもん)から腸が飛び出すことも。妹がずりばいするたび、血便の跡(あと)が床(ゆか)に付(つ)きました。被爆後に体調を崩(くず)し、亡くなる人が相次いでいた時期です。「母親は私たちの死を覚悟(かくご)していたようです」。家族の看病(かんびょう)のおかげで、その年の暮(く)れには回復。数年後、復員した父親がバラック(小屋)を建て、自宅跡に戻(もど)ることができました。

 29歳で結婚、2人の子どもを育てました。被爆を理由にいじめに遭(あ)った経験から、長年原爆の話題は避(さ)けていましたが、被爆者の友人に誘(さそ)われて2001年から平和記念公園を案内する「ヒロシマピースボランティア」の活動を始めました。被爆者の高齢化が進むにつれて「幼くして被爆した自分も話さねば」と思い、15年から市の被爆体験証言者にも。近藤さんに代わって体験を証言する「被爆体験伝承者」も9人が活動しています。

 昨年5月に広島市であった先進7カ国首脳会議(G7サミット)の時期には、核保有国を含む6カ国45人の記者らに語りました。真剣(しんけん)に聞き入る様子に「原爆の恐(おそ)ろしさを海外の人たちに伝えたい」との気持ちを強めました。英語でも証言ができるよう、勉強中です。「核兵器廃絶(かくへいきはいぜつ)のために世界が手を取り合わないといけない。平和の架け橋になりたい」と力を込めます。(新山京子)

私たち10代の感想

心や感情 破壊する原爆

 近藤さんは疎開先(そかいさき)から広島市中心部へ向かう途中(とちゅう)、多くの遺体(いたい)や白骨(はっこつ)を見たのに驚(おどろ)かなかったそうです。地獄(じごく)のような光景を幼(おさな)い子どもが見て何も感じなくなるほど、人の心、感情も破壊(はかい)してしまうのが原爆です。放射線の影響にも多くの人がおびえたことを想像しました。核兵器は必要ないとあらためて感じました。(中2矢沢輝一)

笑顔につながる行動を

 放射線(ほうしゃせん)による影響(えいきょう)での体調不良や差別は、苦しく悲しい体験だったはずですが、つらい記憶(きおく)を話すときも近藤さんは終始優しい口調でした。「若い人は音楽でもスポーツでも好きなことに取り組んで、世界の人たちと交流して」とも語りました。被爆者の証言を語り継(つ)ぐとともに、人々の笑顔と平和につながるような行動をしたいと思いました。(中3川本芽花)

 やけどで皮膚を垂らして歩く人たちや、がれきにまぎれた白骨を目の当たりにした近藤さん。被爆後にいじめにも苦しんだからこそ「戦争は人の心まで汚してしまう」という近藤さんの言葉が印象に残っています。心が正常に動かなくなって、ひどいことでもしてしまう。そうしないためにも、人との交流や助け合いを大切にしていかなければいけないと感じました。(高2田口詩乃)

(2024年2月12日朝刊掲載)

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