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連載・特集

『生きて』 広島東洋カープ元選手・監督 山本浩二さん(1946年~) <14> 最高年俸

王が引退 球界をけん引

  ≪巨人の王貞治が引退した1980年オフ、年俸5200万円で球界トップに立つ。84年は球界最高の年俸8500万円≫

 今の時代は年俸5億、6億円だから全然違うけど、球界の年俸アップに貢献してきた自負はあるよ。80年以降はかなり年俸を意識していたからね。

 年俸は正直に言ってきた。1年目の69年は180万円、75年は1千万円。初優勝して2千万円になった。後から聞いたら9連覇した巨人の堀内恒夫は1800万円。球界の年俸が上がり始めたのは75年のカープ初優勝からだと思うよ。

 ≪4度の本塁打王とともに、3度タイトルを獲得した打点や進塁打にもこだわった≫

 試合前の打撃練習は右打ちから始めて、最後の4球は状況を設定して打った。走者が1死三塁や無死二塁とか。普通の状態ならいくらでも打球はスタンドに入るけど、腰痛なんかで調子が悪くなると入らない。だから惰性の練習ではなく、常に最後の4球は試合の4打席と同じように集中力を持ち、気合を入れてた。若い時はバットをガンガン振って体に覚えさせたけど、試行錯誤の末、変わるのよ。

 ≪72年から81年まで現在のゴールデングラブ賞を外野手で10年連続受賞。鉄砲肩から「野球の常識を変えた男」というキャッチフレーズも付いた≫

 1年目から守備で使ってもらったし、肩も含めて自信があった。足は速い方じゃなかったけど、昔から飛球の落下点に一直線に向かい、勘がいいといわれたよ。

 試合前の守備練習でスタンドから拍手をもらっていたからね。だから守備でやじられたことはない。特に本塁送球にはこだわりがあったね。外野からはノーバウンドで投げるより捕手が取りやすいバウンドで投げるのが大事なのよ。カープにも肩の強い選手はいたけど、中途半端に投げるのが多かったよな。わしの後を継いだ外野手は広瀬純だね。その後はいないなあ。

(2024年2月10日朝刊掲載)

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