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連載・特集

『生きて』 広島東洋カープ元選手・監督 山本浩二さん(1946年~) <16> 集大成

18年間で最高の打ち方

 ≪1986年に126試合で27本塁打を放ちながら引退を決断≫

 85年の開幕前に右ふくらはぎを肉離れしたのが響いた。あそこをやると、当時はだいたい1、2年で引退よ。復帰後は捉えたと思った打球がフェンスを越えなくなってね。体の切れが落ちていると実感するのよ。引退の一番の理由は4番を1年間、張れなくなったこと。休養を入れて試合に出るなら、まだ自信はあったよ。でも4番は全部出るという時代だから。

  ≪1986年に126試合で27本塁打を放ちながら引退を決断≫

 九回に小早川毅彦のソロで1点差に迫り、森祇晶(まさあき)監督がマウンドに行った時、「代えるな」と心の中で叫んだよ。3打席で球筋は見えたから、狙いは外角スライダー一本。秋の広島市民球場は北風だけど、右翼ポール際の打球が伸びる。そこに懸けた。

 東尾は続投。打席ではストライクゾーンを外にずらして「外角を真ん中」にして待った。初球はスライダーがど真ん中に来た。狙いは外だから内角を突かれた感覚で手が出ん。2球目は内角にシュートが外れ、3球目にスライダーが外角低めにきた。それを左足はアウトステップしながら膝と肩は開かず、両腕を伸ばして捉えた。打球は右翼席への同点ソロ。ちょっとでも体が開いたらスタンドに入ってないし、読みもスイングも状況判断も18年間で最高の集大成となる打ち方ができた。

  ≪「山本浩二は幸せ者でした」と引退スピーチした≫

 実は悔いがある。76年は出場129試合なんだけど、それは最終戦のダブルヘッダーの1試合目をずる休みしたから。「どうする」と言われ、前年より成績も下がっていたから「もういいです」って出なかった。2試合目に代打で出て、そこから872試合連続出場。75年は130試合に出たから、休まなかったら連続試合は1100を超えている。あの時、出ますと言えば…。今でも悔いがあるよ。

(2024年2月15日朝刊掲載)

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