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社説・コラム

『想』 川野祐二(かわのゆうじ) 2人のイエズス会神父

 昨年7月31日、聖イグナチオの祝日の日の中国新聞「洗心」欄に、元イエズス会総長ペドロ・アルぺ神父の列福に関する記事が掲載された。アルぺ神父とエリザベト音楽大創立者エルネスト・ゴーセンス神父を想(おも)う時、無償の愛が重なって見えた。

 1907年にスペイン・ビルバオで生まれたアルペ神父と1908年にベルギー・リエージュで生まれたゴーセンス神父はほぼ同じ年齢だ。2人とも司祭養成期と来日後、戦争に翻弄(ほんろう)された。

 来日前の2人は、33年にオランダ・ファルケンブルクの神学院で出会っているのではないか。政権が交代し、スペイン国内からイエズス会士が追放され、アルペ神父はベルギーやオランダで哲学・神学を修学した。ゴーセンス神父はすでにここで哲学を修めていた。

 来日はゴーセンス神父が早く36年。日欧で戦火が拡大する中、神学を日本とアイルランドで研鑽(けんさん)し、41年3月に司祭叙階。幟町教会でドイツ人神父たちと働いた。しかし同年12月8日に太平洋戦争が勃発し、日本がベルギーを敵国とした12月19日または翌日に三次の抑留所に拘束され、翌年12月には埼玉・浦和に移送され(内務省警保局外事課『外事月報』より)、終戦まで収容されたために被爆は免れた。

 アルペ神父は司祭となり、米国で医学・倫理を深めた後38年に来日し、山口教会で働いた。日独伊の枢軸国寄りのスペイン国籍であったが、外国人ゆえに開戦直後約1か月間スパイ容疑で収監された。長束修練院に異動後、被爆したが、医学の知識を生かして多くの人々を救った。終戦前で外国人を恐れる人は多かったはずだ。

 戦後アルペ神父は日本、そして世界のイエズス会の指導者となった。イエズス会学校の教育方針の一つである「他者のために」は彼のスピーチに由来する。ゴーセンス神父はエリザベト音楽大をつくり、音楽によって「他者のために生きる人」を育む伝統を築いた。2人の神父のたくさんの働きと実りについて、皆さんにも思いをはせてほしい。(エリザベト音大理事長・学長)

(2024年2月15日朝刊セレクト掲載)

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