×

連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 被爆者 サーロー節子さん(92) 広島流川教会牧師 谷本清

愛と行動 反核の原点に

 70年前、留学を志して渡米。その後移り住んだカナダを拠点に被爆体験を語り、核兵器廃絶を訴えてきた。いまや世界で知られた存在だが、原爆投下を肯定する世論が根強い北米での活動は、決して順風ではなかった。  途方に暮れた時、自分に言い聞かせた言葉がある。「愛と行動の伴う信仰」。広島流川教会の谷本清牧師(1909~86年)が語り、自ら示してくれた。「私の人生を貫くアクティビズム(行動主義)の原点です」

 米国の作家ジョン・ハーシー(93年死去)が46年に広島で被爆者を取材し、大反響を呼んだルポ「ヒロシマ」の登場人物だ。その知名度も生かし、日米をまたにかけ「ノーモア・ヒロシマズ」を訴えた。米国市民が原爆孤児を物心両面で支援する精神養子運動を推進。顔などに大やけどのケロイドができた女性のため、東京やニューヨークでの治療を求め奔走した。

 「とにかく忙しい人。『牧師は教会で日曜の説教を準備すべきだ』などさまざまな批判を受けていたが『行動がなく、実践が伴わないなら信仰ではない』と耐えていた。信念を貫く姿は尊かった」

 79年前の原爆で被爆し、多くの教会員を失った谷本氏。「しかし自分と家族は生き残った」。被災者たちの命を救えなかった体験と負い目が戦後の出発点となった。

 関西学院大(兵庫県)と米国留学で培った英語力が身を助けた。戦後の初渡米は48年。メソジスト教会の招きで15カ月間、広島の実情を語り、教会の再建資金を募った。平和研究と被爆者救援の拠点となる「ヒロシマ・ピース・センター」の開設を悲願とし、米国の著名人との連携を深めていった。

 そんな「谷本先生」との接点を得たのは高校時代だ。姉と4歳のおいたち親類9人や、学友らの原爆死と向き合い「自分だけが生き残ったことの意味を探し求めた」。流川教会に通い、17歳を目前に受洗した。

 大学生のときは日曜学校で子どもたちに聖書を読み聞かせ、米国から届く書類や「精神親」が孤児にしたためた手紙の翻訳を手伝った。「先生からさまざまなボランティア活動の機会をいただいた」青春時代だった。

 個人的な恩もある。同じ頃、関西学院で英語を教えるカナダ人と出会い、引かれ合ったが両親の大反対に遭った。先に決めていた留学のため、単身米国へ。翌年、日本から望外の一報が届く。谷本氏が両親を説得し、結婚の承諾を取り付けたという。その人の名はジム・サーロー(2011年死去)。最愛の夫、そして反核運動の「同志」となる。

 「米国での結婚式にも駆けつけてくれた。先生のおかげで私がいる」と思う。ただ「平和運動の方向性には違いもある」。

 米国行脚で「被爆者は米国を恨んでいない」と語り、「日米和解」を模索した谷本氏。「国際理解の根本態度は『さば(裁)くなかれ』である」。対して自身は、核保有国の責任を問うてきた。17年のノーベル平和賞授賞式では、原爆投下を巡り「残虐行為、戦争犯罪と見なすことをなお拒絶する人たち」を演台から批判。声なき死者の怒りを代弁した。

 それでも「占領下の日本から米国人の懐に飛び込み、ヒロシマを直接伝えた先生の功績は無二のもの」。対日戦勝の余韻が冷めぬ地で、被爆地の惨状を知り苦悩する市民や原爆投下部隊の元乗員の声にも谷本氏は耳を傾けた。

 精神養子運動は、戦後復興から取り残されがちな存在に光を当てた。ケロイド治療を求める奮闘は、戦後初の援護法制となる原爆医療法制定の端緒となった。「長年米国を歩いてきましたが、どこに行っても先生の名が残っているんです」。日米両国に、「もっと評価されるべき人」の足跡は刻まれている。(金崎由美)

さーろー・せつこ
 広島市生まれ。広島女学院大卒。カナダ・トロント大で修士号(社会福祉学)。スクールソーシャルワーカーとしてトロント市教委に勤務。2017年、国際非政府組織(NGO)核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)を代表し、ノーベル平和賞授賞式で演説。トロント市在住。

ヒロシマ・ピース・センター
 広島からの世界平和への貢献策として谷本氏が提唱。当初は研究機関や病院なども含む構想だった。ノーベル文学賞作家パール・バック氏やジャーナリストのノーマン・カズンズ氏らが1949年、米国で「協力会」を結成。日本側センターは50年に発足し、精神養子運動の窓口にもなった。現在は「谷本清平和賞」などを主催。カズンズ氏が第1回、サーローさんは第26回受賞者。

(2024年2月19日朝刊掲載)

年別アーカイブ