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[イチからわかる] マーシャル諸島の被曝 米国が支配 核実験繰り返す 「死の灰」被害、補償行き渡らず

 中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で米国がした水爆実験により、静岡県焼津市のマグロ漁船第五福竜丸が被曝(ひばく)してから3月1日で70年になります。米国は12年間にわたり、一帯で67回の実験を重ねました。被害や補償の現状をまとめてみます。(下高充生)

  Q マーシャル諸島ってどんな国?
 A 日本の南東約4500キロで、米グアムとハワイの間にあり、サンゴ礁が隆起してできた29の環礁と五つの島から成ります。面積は約180平方キロで、広島市の5分の1ほど。人口は約4万1500人です。

  Q なぜ米国の核実験場に?
 A 米国は第2次世界大戦でマーシャル諸島の支配を巡って日本と戦った後、占領しました。1946年にビキニ環礁で核実験を開始。47年に国連の信託を受ける形で正式に統治を始め、58年までビキニ、エニウェトクの両環礁で67回もの核実験をしました。爆発力の総量は広島原爆の約7千発相当とされています。

  Q 被害は?
 A 54年3月1日にビキニ環礁であった最大の水爆実験「ブラボー」で放射性降下物、いわゆる「死の灰」が降ったロンゲラップ環礁(ビキニの東約170キロ)では、住民に甲状腺障害や流産、死産が相次ぎました。近海で操業していた第五福竜丸の乗組員23人も被曝し、無線長の久保山愛吉さん=当時(40)=が半年後に亡くなりました。

 人体への影響だけではありません。住民は故郷を追われ、食生活や文化を奪われました。一連の実験で出た汚染土などを捨てたドームが劣化し、放射性物質が海に流れ出る心配もあります。

  Q 補償はあったのだろうか。
 A 86年にマーシャル諸島が独立した際、米国は補償を含む1億5千万ドルを拠出し、「完全決着した」との立場を取ってきました。ただ、被害を認めたのは実験場を含む4環礁のみ。米公文書では4環礁以外も被曝したとされています。

 マーシャル諸島政府は米国の拠出金で基金をつくり、医療給付や土地被害の補償に充てましたが、枯渇し、行き渡っていません。世界のヒバクシャの声を受け、2021年に発効した核兵器禁止条約には核被害者の援助と環境の回復が規定されており、具体化が急がれます。

閉じ込められた体験 光当てよ ジャーナリスト・前田哲男さん

 1954年にマーシャル諸島ビキニ環礁であった米国による水爆実験「ブラボー」で、ロンゲラップ環礁の86人(胎児4人を含む)は事前に避難させられることなく被曝した。20年後に日本のジャーナリストとして初めて環礁を訪ね、被害者を取材した前田哲男さん(85)=埼玉県=に当時の訴えや今に続く問題点を聞いた。(下高充生)

  ―74年にフォトジャーナリスト島田興生さんとロンゲラップに渡り、何を見聞きしましたか。
 7月下旬に着いてすぐ、被曝後から体調を崩していた男性が亡くなり、8月6日に葬式が開かれた。「広島では原爆犠牲者に祈りをささげる日だが、ここで起こっていることを知っている人は(日本に)誰もいないし、気にかけている人もいないだろうな」と考えた。この景色から一生逃れられない、伝えないといけないと思った。

 帰りの船まで4週間滞在し、住民から「釜のふたが爆風で飛んだ」「雪(放射性降下物)が降った」といった証言を得た。浜のヤシの木はビキニと反対に傾いていた。

  ―日本から突然訪れた記者を住民は受け入れてくれたのですか。
 聞いてくれ、聞いてくれと。日本が戦前に統治していたし、広島、長崎の被爆を知っている人もいた。米国の医師は検査するだけで治療してくれないとの強い不満を住民は抱いており、日本の医師への大きな期待があった。住民が日本に向けて強く発信していたことが、日本の人に受信されていない面があった。

  ―マーシャル諸島の被曝を今どう捉えますか。
 核の時代に、太平洋の島国が世界情勢や核戦略とつながって実験場に選ばれ、忘れ去られ、閉じ込められた。世界の関心からいえば小さな小さな出来事かもしれないが、普遍性がある。日本政府は核抑止論を成立させるために、抑止が破れた時に起こり得る広島や長崎の経験に目をつぶり、ローカルな問題にしているのではないか。

 依然として人類の価値観に反映されていない広島や長崎と同じように、マーシャルの体験に光が当てられるべきだ。

まえだ・てつお
 1938年、北九州市生まれ。61年、長崎放送へ入社し記者に。71年からフリーで活動する。太平洋の核問題のほか、日本の防衛政策や米軍基地を取材してきた。著書に「棄民の群島」「戦略爆撃の思想」など。

(2024年2月18日朝刊掲載)

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