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連載・特集

『生きて』 広島東洋カープ元選手・監督 山本浩二さん(1946年~) <17> 監督就任

成功体験で猛練習課す

≪引退後、入団時の監督だった西武の根本陸夫管理部長から現役続行を打診される≫
 引退あいさつに行ったら「うちに来い。清原(和博)の教育係をやれ」と。パ・リーグは指名打者だし、行っていれば、あと2、3年はできたかもしれない。でも、それはプライドというか、ずっと世話になったカープで終わりたいから断ったよ。

  ≪1988年秋に監督就任。ヘッドに大下剛史、打撃に水谷実雄、投手に池谷公二郎の3コーチを招聘(しょうへい)した≫
 球団に「絶対に受け入れてほしい」とお願いした。一番肝心のヘッドコーチは、もし監督になったら大下さんにという思いが前々からあったのよ。ジンちゃん(水谷)も打撃に関して苦労した分、厳しく指導して育ててくれた。池谷は真面目で理論を持っている。みんな、わしの意をくんでやってくれたよ。

  ≪就任後の秋季キャンプ。連日2時間のランニング、2時間の特打など猛練習を課す≫
 わしらが若い頃に成長できたのは何かとなったら、猛練習しかないのよ。鍛えられて、やらされて、すると知らないうちに周りからうまくなったとか、いい選手になったとか、言われるようになる。それをやってもらいたかった。練習に勝るものはないから。日没前まで練習して、日南・天福球場の照明がついたからね。初めて見たよ。

 選手は苦しくて、嫌だったと思うよ。そのため、コーチミーティングで一つ決めたことがある。選手を周りから囲って励ましていこうと。人間って、しんどいと楽をしたい、どこかに逃げたいとかあるじゃない。それをみんなで励まして元に返し、輪の中に入れようと。選手が一人でも抜けたら、チームはちょっとおかしくなるからね。

 それで秋を乗り越えて、翌春キャンプの練習量を3分の2にしたら、選手がものすごく楽になったというわけよ。しめたと思ったね。体も技術もできてくる。全てはそこからやったね。

(2024年2月17日朝刊掲載)

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