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連載・特集

『生きて』 広島東洋カープ元選手・監督 山本浩二さん(1946年~) <18> 優勝

チーム一丸「津田のため」

  ≪監督就任1年目は73勝51敗6分けで2位。翌年も2位≫
 就任当初は難しさを感じていたよ。選手と同じ目線に合わせないといけないのに、試合を見ながら、わしだったら…とね。

 1年目は貯金22だけど、巨人に突っ走られた。2位の手応えというより投手力はあったから、課題は4番打者をどうするか。「4番・山本浩二」はいないし、トラ(西田真二)やアレンを4番に起用したけど、長い期間で軸となる日本人選手が絶対必要だった。

  ≪3年目の1991年。開幕直後にダブルストッパー構想の一角、津田恒美が病で離脱した≫
 選手も苦しい練習に対しての見返りがないと、やる気がなくなる可能性も出てくる。その中で、津田のことがあって。あの年は津田のためにできることを何でも頑張ろうという意識が選手の中に常にあった。

  ≪首位中日に最大7・5ゲーム差から徐々に詰め寄り、前半戦は3位ターン≫
 シーズン中は、しょっちゅう津田の見舞いにいった。入院先が広島のときは試合が終わった後にこっそり。福岡の病院の時は広島から福岡経由で遠征先の東京にいくとか。神頼みもしたし、祈禱(きとう)師にも頼った。何とか良くなってほしい一心で。チーム全員がユニホームのポケットにお守り、帽子の中にはお札も入れた。「優勝して津田をハワイに連れて行こう」とね。

 中日と競り合っていた9月上旬の甲子園で、チームのムードががらっと変わったのよ。ベンチで声が出る。凡打しても「次だ」と、集中力も切れない。聞けば選手会長の山崎隆造を中心に宿舎で選手だけのミーティングをしたと。そこからさらに東京ドームで勝って、ナゴヤで中日に3連勝して首位に立った。

 逆転優勝の要因はいろいろあるけど、津田への強い思いが間違いなくあった。チームが一つに向かっていく時には必ず何かがある。見えない力がね。

(2024年2月20日朝刊掲載)

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