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連載・特集

この人の〝反核〟 <2> 猿橋勝子(地球化学者、1920~2007年)

科学の成果 人類の福祉に

福竜丸事件 「死の灰」分析

 50歳未満で顕著な研究業績を収めた女性科学者に贈られ、今年で44回を数える「猿橋賞」。自然科学を志す女性への大きな励ましとなってきたその賞の名は、創設者の猿橋勝子に由来する。気象庁気象研究所に勤め、大気圏・水圏を含む地球の構成物質について研究する地球化学の分野で活躍した科学者だ。

 気象庁を退官した1980年、先輩や同僚から寄せられた基金で賞を創設。83年刊の自伝的エッセーによれば「女性科学者のおかれている情況の暗さの中に、一条の光を投じたい」との願いを込めた。

 「猿橋先生は、一言でいえば『厳しい人』でした。現状に甘んじるな、実績を上げろ、と。受賞者にはとりわけ厳しかった」。第10回の受賞者で生物学者の筑波大名誉教授、高橋三保子さん(81)は振り返る。受賞後、賞の主催団体「女性科学者に明るい未来をの会」の庶務を担い、猿橋をサポートした。

 猿橋は、気象研究所の恩師三宅泰雄(1908~90年)の言葉を引いて「科学者は哲学者でなければならない」と後進に説いたという。そうした信念の背景にあったのが、核実験による地球の汚染に科学者として向き合った体験だ。

 54年、東京の中央気象台(気象庁の前身)気象研究所にいた猿橋は、オゾン層の研究を経て海水中の炭酸物質の分析で実績を上げ、「微量分析の達人」として知られていた。そこへ持ち込まれたのが当時、日本中の関心を集めていた「死の灰」だった。

 その年の3月1日、太平洋ビキニ環礁での米国の水爆実験に日本の遠洋マグロ漁船が遭遇。降り注いだ白い灰を浴びた乗組員が急性放射線障害を発症した。広島・長崎に次ぐ3度目の核被害として、原水爆禁止運動のうねりを生み出すことになる「第五福竜丸事件」である。

 灰のまとう放射性核種の特定が東京大などで進む一方、猿橋には灰本体の成分の分析が任された。猿橋は、持ち込まれた5月28日のうちに結果を出す。水爆が、サンゴの炭酸カルシウムを超高熱で分解しながら空に巻き上げたことを証すデータの一つとなった。

 猿橋はこの後も、科学者として地球の核汚染に向き合っていく。世界各地で核実験が相次いだ当時、降雨や海水に含まれる放射性物質の分析という重責を担った。

 61年に発表した日本近海のセシウム濃度について、米国の研究所から「われわれのデータに比べて明らかに過大」と分析法への疑いが寄せられた際の対応は、語り草だ。単身渡米し、現地の研究者と同一サンプルを使った「分析競争」に勝つ。日本の分析法の精度の高さを証明し、評価と信頼を勝ち取るとともに、核実験のもたらす汚染の深刻さをあらためて突き付けた。

 猿橋は82年から、第五福竜丸平和協会(東京)の理事を最晩年まで務めた。核兵器を禁止し平和思想を育てることを目的に、76年に開館した都立第五福竜丸展示館を運営する財団法人だ。

 「広島、長崎、ビキニの被爆者たちは、私の父であり、母であり、また兄弟である」「科学者の発見した真理は人類の共有財産であり、人類の幸福と福祉にのみ利用開発されなければならない。他国の国民を殺すことに科学を用いてはならない」…。自伝的エッセーにつづった信念、哲学を体現する活動だった。

 ただ、同館学芸員として猿橋と長く接した安田和也さん(71)は「反戦反核の旗を振るのではなく、あくまで科学の専門家として助言を惜しまない、という姿勢を貫いた」と、その言動を思い起こす。「死の灰にじかに向き合った科学者だけに、かえってすごみを感じさせた」

 猿橋は、女性初の日本学術会議会員(定員210人)でもあった。81~85年の第12期を務めた。

 日本の科学者を代表する組織として49年に設立された同会議は、「軍事目的のための科学研究を行わない」と声明にうたってきた。一方で「近年、軍事と学術とが各方面で接近している」とし、在り方の検討も進めてきている。猿橋が生きていたら何を語るだろうか。(編集委員・道面雅量)

さるはし・かつこ
 東京都出身。1943年、帝国女子理学専門学校(現東邦大理学部)を卒業、中央気象台嘱託に。57年、理学博士(東京大)。気象庁気象研究所で地球化学研究部長などを歴任した。写真は2003年(「女性科学者に明るい未来をの会」提供)。

(2024年2月21日朝刊掲載)

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