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社説・コラム

『今を読む』 歴史作家 穂高健一(ほだかけんいち) 阿部正弘と岸田外交

戦争止める決意と気迫を

 幕末期の歴史小説を書いてきた作家として、日本を開国に導いた老中首座(今の内閣総理大臣)で福山藩主の阿部正弘の叡智(えいち)に学ぶべきものは多いと考えている。

 米ペリー提督の黒船が来航した1853年と言えば世界史ではクリミア戦争である。「欧州大戦」と呼ばれるほど戦争の規模が拡大し、アジアに飛び火した。日本にも影響し、鎖国から開国へと歴史的な大変革になる。黒船が江戸湾に来航した同年6月に12代徳川将軍家慶が急死し、わが国の命運は34歳の阿部の手腕にかかった。

 その1年前にはオランダから米国艦隊の日本遠征があると、ほぼ正確な通報が幕府に寄せられていた。阿部は46年に米艦隊ビッドル提督が浦賀に来航した時のように、わが国から発砲せずに避戦の態度を取れば、戦争は回避できると踏んでいた。そのためにも黒船が来航するまで武備は整えず、攘夷(じょうい)派の刺激を避けるために情報を伏せておいた。

 阿部はペリー提督が持参した米大統領国書を久里浜で受理させ、回答は1年後に渡す、として退去させた。ここから阿部は前代未聞の手段に及ぶ。数百枚の翻訳文を筆写させた上で、53年7月初めには江戸城に総登城させた幕臣、親藩と外様の大名、さらには朝廷にも京都所司代を通じて米国の情報を開示した。身分を問わず、忌憚(きたん)のない意見を求めたのだ。

 その実、常日頃から関係者の意見をしっかり聞いて、最後は自分が決めて全責任をとる政治姿勢を貫いてきた。予想通り700通余の意見のほとんどが米艦隊の打ち払い。しかし阿部は4、5人の少数意見をもって米国と戦争せず、日米和親条約を締結させた。

 その半年のちの54年9月、ロシアと交戦する英国艦隊の司令スターリングが長崎港に寄港した。阿部は長崎奉行からの報告で、わが国の局外中立を表明した上で米国と同様の日英和親条約を結んだ。さらに55年2月にロシアのプチャーチン提督との間で日露和親条約を締結する。わずか1年で超大国の米英露と戦争なくして平和条約を締結した。それもクリミア戦争のさなかに。世界の歴史上でも稀有(けう)な、ずばぬけた政治力である。

 また大船建造の禁を解き、外洋船舶の建造を認めた。200年余に及ぶ日本人の海外渡航の禁止を破棄する大胆な決断だった。

 ロシアとの国境交渉を巡る決断にも阿部の叡智があった。「日露の国境はウルップ島とエトロフ島の中間と決めよ。難解で不透明な樺太は、国境を定めずともよい。棚上げにして共有の土地にせよ」とする日露和親条約の締結を優先させた。この先、明治時代に千島列島との交換で解決を見る。

 ウクライナの戦争が勃発して2年。原点はクリミア半島の領有権・施政権の奪い合いである。第2次世界大戦後の54年にソ連がウクライナ共和国に移管した。ところが2014年にプーチン大統領がロシア併合を宣言し、国連総会は無効と決議した。かつてのクリミア戦争が、170年たった今も紛争の火種になっている。欧州の戦争史をひもとくと国境を接する戦争は、とかく数十年に及ぶ長期の悲惨な争いとなる。

 誰がどう止めるのか。仮に「ウクライナ、ロシア両国は人類存続のためにも核戦争回避で、まず停戦する。そして双方の主張が重なり合う領土はいったん共有の地(無主地)とする」と提案すればどうなるか。ゼレンスキー大統領やウクライナ国民は、こぞって反発するだろう。ロシアの一方的な侵略である。東部4州を取り返すまで戦い、ロシアのごね得になるような曖昧な停戦には応じられない、と拒絶するはずだ。

 ただウクライナで病院、学校、住宅へ攻撃が繰り返されている。為政者が無差別な攻撃や民間人の死に無感動になれば核戦争のボタンに手が伸び、人類に終止符を打つことになりかねない。絵空事でも他人の事でもない。戦争とは人間の理性を失わせる行為なのだ。

 主要国(G7)はウクライナへの支援疲れで疲弊してきている。先の広島サミットで各首脳は被爆都市の惨状を知り得た。岸田文雄首相は優先度の高い政治課題として「核保有国の戦争は即時停戦を求める」と労を費やすべきだ。

 イスラエルとパレスチナ自治区ガザの紛争でも「和平交渉の会議の場所として広島を提供する」と発信してもいい。戦争は資源を無駄に使い果たし、地球温暖化を加速させる。岸田首相が阿部のような強い決意と気迫に満ちた外交姿勢を示せば、少なくとも後世には評価が高い首相になるだろう。

 1943年広島県大崎上島町生まれ。中央大経済学部卒。「広島藩の志士」「安政維新 阿部正弘の生涯」「妻女たちの幕末」など幕末維新期を題材に小説を執筆。東京都葛飾区在住。

(2024年2月27日朝刊掲載)

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