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[モノ語り文化遺産] 平和塔の金鵄 軍都からヒロシマへ 体現 兵士迎えた「凱旋碑」 変えた名称

 広島市南区皆実町6丁目の交番の横に、ひっそりと立つ花こう岩造りの「平和塔」。高さ16メートルもある塔の頂点で、金鵄(きんし)を模した彫刻が翼を広げる。日清戦争(1894~95年)から戻った陸軍兵士を迎える「凱旋(がいせん)碑」として1896年に建てられた。そして130年近く。被爆後に名称を改め、同じ場所に立ち続ける。「軍都廣島」から「国際平和文化都市ヒロシマ」へ。広島市の近現代史を体現する物言わぬ証人だ。(渡辺敬子)

 明治期に宇品港や山陽鉄道が完成した広島は、日清戦争で大陸へ兵士を送る最前線となった。1894年、広島城にあった第五師団司令部に、明治天皇が軍を指揮する大本営が移された。臨時帝国議会も開かれ、一時的に首都として機能した。

 日本書紀に、後の神武天皇を戦いの勝利に導いた金色のトビが登場する。金鵄は皇軍勝利の象徴。軍を率いた古代の天皇とイメージを重ね、権威付ける役割も果たしたようだ。凱旋碑は第五師団の兵士を送り出した中国地方の有志が建てた。中には遺族もいたかもしれない。

 爆心地から約2・5キロにあった塔は原爆による倒壊を免れたが、戦後、老朽化した金鵄の落下が懸念された。住民の要望を受け、市は1984年、平和塔の安全調査と補強工事に着手。塔が立つ国有地を借り、翌年から緑地として管理する。ただ当時の報告書は金鵄ではなく「鷹(たか)の像」と記している。

 「腹に穴が開き、鳥の巣があった。ふんは酸性なので青銅の腐食が進み、丸石に差し込んだ2本の脚でやっと立っていた」。修復を依頼された大田鋳造所(西区)の大田喜穂社長(71)は記憶する。壊れた羽やくちばし部分の新しいパーツを作って溶接。内部に樹脂を流し、ステンレスの支えを1本加えて補強した。

 大田社長は当時、塔の上から瀬戸内の島々を見渡した。「兵隊が凱旋する御幸通りを見下ろす」と金鵄は説明されるが、実際はやや東を向く。「本当はどこを見ているのだろう」と疑問が湧いた。

 古地図を広げると、金鵄は広島城を背に、宇品港の方角を見据える。静岡県立美術館の木下直之館長(70)は「碑の建設において最も重要なのは位置と向き」と指摘する。美術と社会の関係を考察し、平和塔に着目してきた。「日清戦争から日露戦争へ。国の針路を示すため、ふさわしい場所が選ばれたのだろう」

 塔の銘板部分はセメントが塗られ、正面に「平和塔」、背面に「昭和二十二年八月六日」とだけ刻む。遅くともこの日には平和塔の名称になっていたことが分かる。市内で第1回平和祭があり、マッカーサー連合国軍最高司令官のメッセージが読まれた日だ。

 当時の浜井信三市長たちは昭和天皇を平和祭へ招きたいと要請したが、見送られた。しかし12月に広島市巡幸が実現する。昭和天皇は「われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べた。2年後の49年8月6日、広島平和記念都市建設法が公布された。

 名称を変えた人物は分からない。大田社長は「金属供出を免れ、原爆にも耐えた碑を壊す気はなく、残したい一心だったのではないか」とみる。あえて曖昧にする必要もあったのだろう。

 塔を管理する南区役所維持管理課は安全点検を毎月行い、中国財務局へ毎年報告する。しかし、国有財産台帳に登載がなく、設置者と所有者は不明だ。木下館長は「複雑な経過も含めて過去の出来事を説明し、正確な情報で歴史を検証する姿勢が重要だ」と語る。

「顧みられていないものに形を」

 近代以降の彫刻家や制作行為を題材とし、徹底したリサーチを重ねて唯一無二の映像作品を生み出す黒田大スケさん(41)=京都市。広島市立大と同大学院で学び、自身も彫刻家である黒田さんが光を当てた作家の一人が、「凱旋碑」のトビを制作した神戸の細工師村上鷹雄だ。

 広島市現代美術館(南区)で昨年展示した「彫刻家達」シリーズ「鷹雄のためのプラクティス」。自分の顔に金鵄、タカ、ハトを描き、村上に憑依(ひょうい)しながら碑への思いを自嘲気味に吐露するユーモラスな作品だ。台本は用意せず、撮影も一発撮り。「自分を追い込み、無意識を絞り出す」

 黒田さんは「広島の被爆や復興の歴史は知られているが、軍都の歴史は知られていない」と感じてきた。「そこにあるのに、顧みられていないものに形を与えてみたかった」

(2024年2月28日朝刊掲載)

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