×

社説・コラム

言ノ葉ノ箱 東直子 うさぎと毒ガス

 今年も文学フリマ広島に「砂糖水」という短歌同人誌で参加することになった。一緒に行くその仲間と、その前日に「うさぎ島」として有名な大久野島に立ち寄った。

 大久野島は、瀬戸内海に浮かぶ、竹原市の無人島(休暇村の従業員を除く)である。広島空港から「LALALA♪ラビットライナー」という予約制の乗り合いタクシーに乗って忠海駅へ。駅から徒歩5分ほどの忠海港からフェリーに乗り、15分ほど揺られて大久野島を目指した。

 驚いたのが、フェリー乗り場で待っていた人の数である。まだ寒い2月に、フェリーの座席がたちまち満席になるほどの人数が乗り込んだ。親子連れやカップル、学生、外国人観光客など、さまざまな人々がうさぎの島を目指して海をわたった。

 前の日まで雨が降っていたようだが、忠海の水はとてもよく澄んでいる。波のおだやかな瀬戸内海にぷかぷか浮かぶ島の一つに、たくさんのうさぎたちがすんでいる。島にある宿泊施設「休暇村大久野島」のサイトによると、島にいるうさぎは600羽ほど。なぜこんなにうさぎが増えたのかは諸説あるらしいが、1971年に島のマスコットとして放ったあなうさぎ8羽が野生化したという説が有力なのだそうだ。

 島に下り立つと、ビアトリクス・ポターの「ピーターラビット」に出てくるような、ベージュやグレーのうさぎが、きょとんとした表情で跳ねたり、エサをたべたり、うとうとと眠っていたりする。とても人懐こいうさぎたちで、忠海港で売っていたエサをあげると、のんびり近づいてきて、ゆっくり咀嚼(そしゃく)する。

 島のあちこちに、ぽこぽこと穴が空いている。うさぎがあけた穴である。松の枯れ枝を口にくわえて運んでいるうさぎもいた。自分の巣の中に入れてベッドにするのだろう。

 こんなのどかな大久野島には、もう一つの顔がある。太平洋戦争終戦まで、兵器に使用する毒ガスを製造していたのである。日本陸軍の毒ガス工場が昭和4年に大久野島に設置され、昭和20年の終戦後に米軍によって破壊された。

 大久野島にはもともと住人がいたが、毒ガス工場を設置するにあたり、島民は全員強制退去させられたという。日本が毒ガスを作っていることは国民には秘密にされていて、その間は地図からも消されていた。

 島には「毒ガス資料館」もある。当時の防毒用のマスクや衣服、長靴などを装備した人形が片隅に立っていて、独特の禍々(まがまが)しさを放っている。ここで主に作られていた「イペリット・ガス」は、防具をフル装備していても隙間から浸透し、皮膚や目や咽喉を侵して人体に重篤な症状をもたらした。その被害の記録などが展示されている。工員の作業服や手帳などは茶色く変色していて、過ぎ去った歳月を感じさせるが、毒ガス製造に使われた陶器の機器は不変の形を保ち、人を殺すために行われた残酷さが胸に迫ってきた。

 毒ガス製造の過去を負わされた島に、今日もうさぎたちはのんびりと海風を浴びている。

耳たてて気配あつめるうさぎたち平らな海に消えた毒ガス 東直子 (歌人・作家)

(2024年2月29日朝刊掲載)

年別アーカイブ