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連載・特集

時の碑(いしぶみ) 土田ヒロミ「ヒロシマ・モニュメント」から <8> 福屋八丁堀本店(広島市中区胡町)

世代を超え繁華街の象徴

 1979年と2019年の写真で、手前の広島電鉄(広電)の電停に柵や雨よけができたのを除けば、大きく変わった印象はない。広島市を代表する繁華街・八丁堀の交差点に面し、世代を超えて「なじみの風景」であり続ける老舗百貨店のビルだ。

 1938年4月、福屋「新館」として開店した(29年開店の旧館は38年9月で閉店)。地下2階、地上8階。原爆の爆心地から約710メートルで熱線と爆風を浴びた被爆建物である。

 被爆時には売り場の大半を戦時統制の下に供出していた。「福屋五十年史」によると、地上は中国地方軍需管理局、木材統制や金属回収の会社、広島貯金局や中国海運局が入り、8階だけ福屋の事務所などに使っていた。地下2階は陸軍通信隊に提供し、地下1階では広島県食糧営団の委託により「雑炊食堂」を営んでいた。

 原爆で外郭を残して全焼。福屋の従業員で犠牲になったのは31人で、3人は店内、ほかは在宅や出勤途中だったという。貯金局では学徒動員されていた女子生徒たちも被爆した。全国被爆教職員の会会長を務めた石田明さん(2003年に75歳で死去)は、広電に乗って福屋前に差しかかった時に被爆。原爆白内障など後遺症と闘いながら、仲間と「わが身を教材に」体験を語り続けた。

 被爆直後に臨時の救護所となったこのビルで福屋の商いが復活するのは、終戦翌年の1946年1月1日。1階の片隅に、れんがでかまどを組んだ「焼跡酒場」だった。配給された清酒を牛乳瓶に入れ、燗(かん)にして売ったという。

 同年2月、食料品や雑貨を仕入れて百貨店営業を再開し、54年に全館の復旧を終えた。75年までに東館整備など4次にわたる増築を経たが、電車道に面した外観は当初の姿をほぼ保っている。

 2枚の写真の違いに目を凝らすと、2019年の方の左端に「八丁座」の看板が見える。「広島地場劇場運営会社」を掲げる序破急(中区)が10年、東館8階に開業した映画館だ。08年で閉じた二つの映画館の跡に入り、ゆったりした座席の2スクリーンを備える。

 蔵本順子社長(73)は「まちなかの映画館の灯を守ろうという使命感でチャレンジした。福屋さんが思いに応え、受け入れてくれた」と振り返る。さまざまな挑戦があってこそ、繁華街は繁華街であり続ける。(道面雅量)

(2024年3月2日朝刊セレクト掲載)

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