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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 畑口実さん―消えぬ憎しみ超え語る

畑口実(はたぐちみのる)さん(77)=廿日市市

父親奪われ「生まれながらに被爆者」

 広島・長崎の被爆者の中には「生まれた時から被爆者」の人がいます。原爆資料館(広島市中区)の元館長畑口実さん(77)は、母親のおなかで被爆した胎内(たいない)被爆者。父親を原爆に奪(うば)われてつらい戦後を過ごし、被爆について触(ふ)れることさえ避(さ)けてきましたが、半世紀を経て、原爆がもたらす「理不尽(りふじん)」を人前で語るようになりました。

 1945年8月6日朝、父二郎(じろう)さん=当時(31)=は宮島(現廿日市市)の対岸の自宅から、広島駅そばの広島鉄道局管理部(現南区)に出勤しました。

 27歳だった母チエノさん(2018年死去)は5歳と2歳の娘(むすめ)と自宅にいました。光を感じ、しばらくして広島方面にもうもうと煙(けむり)が上がるのを見たそうです。不安な思いで二郎さんの帰宅を待ちましたが、次の日も次の日も帰ってきません。

 4日後チエノさんは二郎さんを捜(さが)しに広島駅へ。焼け跡(あと)を歩き回り、二郎さんが身に着けていた懐中(かいちゅう)時計とベルトのバックルを見つけ、そばにあった骨と一緒に持ち帰りました。

 チエノさんは当時妊娠(にんしん)2カ月。「お父さんはあなたがおなかにいると知らないまま亡くなったと後で聞かされました」。幼子と胎児を抱(かか)え「いっぺんに地獄(じごく)へ突き落とされた」とも話していましたが、畑口さんがチエノさんから詳(くわ)しい被爆体験を聞いたのはずっと後になってから。長く原爆の話は避けてきました。

 大黒柱を失ったチエノさんは戦後、働きづめ。小学校の運動会にも来てもらえず寂(さび)しい思いをしました。欲しい物も買えず「なぜ生まれながら父がいないのか」「爆心地から遠く離れた場所で原爆が落とされた翌年に生まれたのに、なぜ被爆者なのか」と悩(なや)みました。10代半ばには、父を殺した原爆と投下国の米国を憎(にく)むようになりました。

 大学を卒業し広島市役所に就職してからも「あちこちの部署で飛び交う原爆や平和といった言葉が嫌で嫌で…」。父を失い、「大きなハンディを背負った私の戦後は平和ではなかった。原爆さえなければ戦争さえなければと腹立たしく、『平和』という言葉が素直に受け入れられませんでした」。被爆したことも隠(かく)し通すつもりでした。

 ところが97年に人事異動で原爆資料館館長に。被爆の実情を国内外に伝える要職です。被爆者であることを隠せなくなりました。チエノさんに初めて詳しく体験を聞きました。自らは被爆者でありながら記憶や実感がないことに戸惑(とまど)いもありましたが、来訪者に父の遺品を示し原爆被害を語ると手応えがありました。

 9年務めた館長を退く際、ある人に「あなたは父親の無念を伝える運命なのでは」と言われました。原爆が人間にどんな苦しみをもたらすか伝えるのが使命だと考えるようになりました。資料館の案内ボランティアや証言活動を始めました。

 今も米国への憎しみは「消えない」と言います。それでも「憎しみは憎しみでは消せない。暴力で仕返しするのではなく、歴史や相手の気持ちを知り対話することで憎しみを和らげ連鎖(れんさ)を止めないと」。戦禍(せんか)が続き核使用も懸念(けねん)される世界を前に若い世代に語りかけています。(森田裕美)

私たち10代の感想

「平和」の意味 考えたい

 「原爆、平和という言葉を聞くのも嫌だった」という畑口さんの言葉に驚きました。つらい経験を思い出す「原爆」はともかく、なぜ「平和」も嫌なのか。それは戦後に寂しさや憎しみを抱えて生きてきた畑口さんにとって自分の暮らしと程遠い言葉だったからです。「平和」とは何か。その意味を深く考えていかないといけないと感じました。(高2田口詩乃)

心の傷の大きさ感じた

 畑口さんは長い間「原爆」「平和」などの言葉を避け続けていたと話していて、原爆による心の傷はとても大きく、ずっと残るのだと思いました。もう一つ学んだのは、憎しみの連鎖を断ち切ることの大切さです。戦争を止めるためには理性を保ち、相手の立場を理解して話し合い、憎しみを和らげていくことが重要だと思いました。(中2行友悠葵)

 畑口さんは、生まれてからずっと父親がいない悲しみや「被爆者」だという理不尽さを背負って生きている気分だと話していました。母親の胎内にいて原爆を見ていないのに、自分が被爆者であるということに悩み、葛藤してきたことが想像できます。また、表面的に「平和」という言葉を使うことにも相容れない思いを抱いていると聞き、私は驚きましたが、原爆による理不尽を知らないから簡単に「平和」という言葉が使えるのではないのかと感じるというふうに説明してくださいました。背景を知る大切さを学びました。(高3中島優野)

 「憎しみは憎しみでは消せない」という畑口さんの言葉が特に印象に残りました。胎内被爆者の畑口さんは、生まれたときから父親がおらず自由に好きなものも買えない状況で寂しい思いをし、原爆資料館の館長になってからも米国に対して憎しみがあったそうです。それでも和解が大切と言えるのがすごいと感じました。私が畑口さんの立場だったら憎しみを持ったままその先になかなか進めずにいると思います。また、「核兵器使用の前提には戦争がある」と聞いて、基となる戦争がおこらないよう、戦争が起きる理由を学び、起こさないためにどう行動していけばいいのか、しっかり考えていこうと改めて思いました。(高1谷村咲蕾)

 お父さんが、もし徴兵検査に受かって戦地に行っていたら原爆では死ななかったかもしれない、ただ、その代わり私は生まれていなかった、と畑口さんは神妙な面持ちで話します。生と死がまるで背中合わせのようで恐ろしいと感じました。私は死を意識せず生きていますが、過去、そして今も、世界には戦争で死と隣り合わせで生きる人々がいます。私が願うのは争いのない未来、ただそれだけです。(高1森美涼)

 最も印象に残っているのは、「憎しみで憎しみを消すことはできない」という畑口さんの言葉です。これまで、実際に原爆の悲惨さを目の当たりにした被爆者の方の証言を聞いてきましたが、今回の取材で、胎内被爆者だからこそ感じる苦しみを知ることができました。原爆は残された家族をも苦しめ続けるものだと感じました。畑口さんは「憎しみは思いやりや愛を持つことで完全には消せなくても少なくすることができる」とも話していました。苦しみや悲しみは簡単に消すことは出来ないけれど、お互いにその感情を理解することが必要だと思いました。また「生きているということに意味がある、亡くなった人が後世に伝えたかったことを伝える役割があるのではないか」という趣旨の畑口さんのメッセージは、私たち若い世代にも通じるものがあると思いました。(高1中野愛実)

 「今もなお原爆の傷を負って生きている人がいる」「今の平和が本当にいいものと言えるのか」という畑口さんの言葉が心に響きました。自国で戦争が起きていないなら良いとは言い切れません。第2次世界大戦後も、世界では戦争は繰り返されており、そのたびに体や心に深い傷を負い続ける人々が生まれます。過去の歴史を忘れて、自分の周りだけの「平和」を喜ぶことは、戦争によって幸せを奪われた人々の気持ちをないがしろにする行為だと思いました。そうしたことに自覚を持って日々生活したいと考えています。(高1吉田真結)

 僕は畑口さんの「憎しみは乗り越えられても消えることはない」という言葉が印象に残りました。当たり前のようですが、被爆者には原爆や米国に対する憎しみがあり、それは一生消えません。ですが、被爆者の方々は憎しみを憎しみで返すことはせず、暴力を繰り返さないよう、憎しみを乗り越えて、体験を話しています。僕たちはそのお話をしっかり受け取り、意味を持たせなければならないと思いました。(中2川鍋岳)

 畑口さんのお話を聞いて、原爆が投下された時に直接被爆した人たちだけではなく、その後に広島市内へ行って入市被爆した人たちも長い間苦しんできたことを知り、原爆への怒りをあらためて感じました。胎内被爆のことも知りませんでした。入市被爆した母親の胎内にいた畑口さんは原爆資料館の館長を退任した後も、原爆の悲惨さを世界へ発信し続けています。僕も何か出来ないかと思いました。もっと原爆のことを詳しく知り、これから多くの人へ伝えていきたいと思いました。(中2新田晄)

 畑口さんは胎内被爆者であることを、資料館長に就任するまで約50年間、誰にも言わず、被爆者健康手帳も隠していたことが、印象に残りました。爆心地から20km以上離れたところで原爆が投下されて7ヶ月以上も経って生まれた自分が「なぜ被爆者なのか」と悩み、そのような行動をとったそうです。誰にも言えず、一人で抱え込んでいた、と思うととても辛い気持ちになりました。また、お父さんを奪い、お母さんや畑口さん自身にも辛い生活や生きづらさを与えた原爆に対しても、複雑な思いがあると聞きました。「憎しみは憎しみで消せない」という畑口さんの言葉も心に残りました。原爆に対する憎しみは完全に消すことはできないけれど、二度とその憎しみを生まないために証言活動やピースボランティアに携わっているそうです。私もそんな憎しみが二度と生まれることのないよう、活動を頑張ろうと思いました。(中2矢澤輝一)

(2024年3月11日朝刊掲載)

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