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社説・コラム

[記者×思い] ヒロシマの視座 忘れない 報道センター社会担当 太田香

  お好み焼きは肉玉うどん、ネギかけ派。ようやく鉄板からへらで直接食べるこつをつかんだ。

 先日、学生時代以来となる「修了証書」を受け取る機会があった。「核のない世界に向けての行動基盤を養うことができた」。授与式で読み上げられた言葉に、思わず身が引き締まった。

 修了したのは、NPO法人ANT―Hiroshima(広島市中区)主催の「被ばく体験継承塾」。昨春、東京の通信社から中国新聞社に出向したのを機に「原爆被害の知識を学びたい」と思い立ち、1年間受講した。月1回ほど、私のような社会人のほか、大学生や被爆体験を伝承する人たちが通っていた。

 講義では、専門家から核被害の歴史や広島、長崎の被爆者の体験を学び、原発事故や世界の核被害者の問題にも触れた。無知を痛感するとともに、今もなくならない核の脅威を思い知った。

 実は広島勤務は2015年に続いて2度目だ。当時は被爆70年。集団的自衛権行使を認める安全保障関連法案を巡り、被爆者団体などが連日、抗議を続けていた。通信社の駆け出し記者だった私は現場に赴くたび、その熱量に圧倒されつつ、どこか一線を引いていた。

 「なぜこんなに熱くなれるんだろう…」。結局、私の中で「ヒロシマ」に正面から向き合えないまま、1年で去ったことが心残りだった。

 久しぶりに訪れた被爆地は、風景が一変していた。駅前に高層ビルが建ち、街なかにはサッカースタジアムも。平和記念公園(中区)は、外国人観光客であふれている。

 それでも変わらないものがある。原爆ドーム(中区)は「もの言わぬ証人」として、核兵器の非人道性を静かに訴え続ける。2度目の赴任で原爆被害の実態を知れば知るほど、被爆者たちの平和を願う思いの強さに寄り添える自分がいた。

 5月には再び東京へ戻り、国政を取材する。核軍縮を巡る国際情勢が厳しさを増す中、日本が果たすべき役割とは何か。この地で学んだ視座を忘れず、問い続けたい。

(2024年3月23日朝刊掲載)

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