緑地帯 若狭邦男 私と大江コレクション①
24年3月26日
昨年3月、ノーベル文学賞作家の大江健三郎氏が88歳で亡くなった。大江氏より12歳若い私は18歳から彼の作品に夢中になり、単行本や文庫はもちろん、寄稿などの載った雑誌や新聞を、古書店も駆使して網羅的に集めてきた。
きっかけは「ヒロシマ・ノート」だった。広島市の東千田町(中区)にあった大学キャンパスに通っていた1965年。講義が終わってふと、大学生協の購買部に寄った。発売されたばかりの岩波新書が平台に積まれていた。理系の学生だったが大江氏の名は高校時代に聞いたことがあり、手に取った。
雑誌「世界」の63年10月号~65年3月号に計7回載った、被爆地広島のルポルタージュが元になっている。大江氏は63年8月から広島に通い、原爆被害の実態や原水爆禁止運動を取材している。
広島原爆病院(現広島赤十字・原爆病院)院長だった重藤文夫氏らの元を訪れ、思索を深めるさまがつづられる。苦悩を深める、といった方が実態に近いかもしれない。
新書発売時で30歳の作家がこれからどうなっていくのか、興味をそそられた。その後、本好きが高じ、古書のコレクターとなる私の原点ともいえる恩人だ。近年、コレクションの大半を処分したが、大江氏の関連分は手元に残している。「ヒロシマ・ノート」の元になる連載を収めた「世界」もそろっている。(古書コレクター=広島市)
(2024年3月26日朝刊掲載)
きっかけは「ヒロシマ・ノート」だった。広島市の東千田町(中区)にあった大学キャンパスに通っていた1965年。講義が終わってふと、大学生協の購買部に寄った。発売されたばかりの岩波新書が平台に積まれていた。理系の学生だったが大江氏の名は高校時代に聞いたことがあり、手に取った。
雑誌「世界」の63年10月号~65年3月号に計7回載った、被爆地広島のルポルタージュが元になっている。大江氏は63年8月から広島に通い、原爆被害の実態や原水爆禁止運動を取材している。
広島原爆病院(現広島赤十字・原爆病院)院長だった重藤文夫氏らの元を訪れ、思索を深めるさまがつづられる。苦悩を深める、といった方が実態に近いかもしれない。
新書発売時で30歳の作家がこれからどうなっていくのか、興味をそそられた。その後、本好きが高じ、古書のコレクターとなる私の原点ともいえる恩人だ。近年、コレクションの大半を処分したが、大江氏の関連分は手元に残している。「ヒロシマ・ノート」の元になる連載を収めた「世界」もそろっている。(古書コレクター=広島市)
(2024年3月26日朝刊掲載)