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[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 被爆教師 森下弘さん(93) バーバラ・レイノルズ

被爆者の苦難 わがことに

 平和教育に心血を注いできた。道筋を付けたのは、核保有国などを巡り被爆の実情を伝えた「広島・長崎世界平和巡礼」(1964年)への参加だったという。「バーバラさんのおかげです」。巡礼を提唱した米国人平和活動家バーバラ・レイノルズさん(90年死去)をしのぶ。

 「まさに清貧で反核の意志を貫いた人でした」。後に広島市特別名誉市民となるレイノルズさんは51年、夫の原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)赴任に伴い広島へ。原爆被害の実情に触れて胸を痛め、運動にまい進した。家族と共にヨットで核実験抗議の航海をし、62年には被爆者の故松原美代子さんら代表2人と米ソなどを巡る。その手応えから「より大規模な行動を」と掲げたのが、64年の巡礼だった。

 「私には被爆体験がある。何か役に立ちたい気持ちと海外に行ってみたい思いがあって」。原稿をしたため、レイノルズさんが待つ選考会に臨んだ。

 原稿には、旧制広島一中(現国泰寺高)3年の時に学徒動員中に被爆し顔などに大やけどを負った生々しい体験をつづった。教師となってからも生徒に顔のケロイドを見られるのがつらくて投げ出そうと思ったことなど、続く苦悩も明かした。

 しばらくして「サンカパス」と電報が届く。勤務先の高校を休み75日間に及ぶ旅に出た。最初に訪ねたのは原爆投下国米国。支援者宅にホームステイしながら学校や集会で体験を語った。「原爆を正当化する人もいましたが、真剣に聞いてくれる善意の市民にたくさん会いました」。直接対話する意義を感じた。

 巡礼団としてトルーマン元大統領とも面会。現地で大きく報じられたが、その時間はわずか3分。当時のメモには〈全く、あっけない、肩透かしみたいな感じ〉〈済まない、といった表現なし〉などと記す。

 「本当に大変な旅でしたが、バーバラさんは効果的活動を考え、段取りしてくれていました。忙しい中、書や詩を書く私に現地の文化人を紹介してくれもして。優しい心配りがうれしかった」

 ところが、寄付などで賄っていた巡礼費用は道半ばで危機に陥る。「それでもバーバラさんは諦めず、私財をなげうち旅を続けました」。強い信念に触発された。

 日本に戻って平和教育に没頭した。教科書に原爆の記述が少ないことに気づき、教諭仲間と教材も作った。「行って帰ってきて終わりにしなかったのも、バーバラさんの影響かもしれません」

 レイノルズさんは巡礼の翌年、親交のあった原田東岷医師(99年死去)と広島にワールド・フレンドシップ・センター(WFC)を創設。69年に米帰国後もオハイオ州のウィルミントン大に「広島・長崎平和文庫」を開設するなど被爆の実情を伝え、難民支援にも尽くした。

 そんな背中を見て「恩返しの思い」で初代理事長原田氏の後を継ぎ、86年から四半世紀余りWFC理事長も引き受けた。在任中とりわけ心を砕いたのが2011年に除幕したレイノルズさんの記念碑。碑には「私もまた被爆者です」と刻んだ。常に被爆者に寄り添い、痛みを分かち合おうとしたレイノルズさんを象徴する言葉として選んだ。

 歳月を経て原爆が生身の人間にもたらす傷を直接語れる人はますます少なくなる。継承が急がれるが、「大切なのはわがこととして受け止められるかどうか」と念を押す。「被爆した人は大変だったで終わりでなく、『私もまた被爆者』と言い得たバーバラさんの足跡を若い人たちに知ってほしい」と強く願う。(森田裕美)

もりした・ひろむ
 現在の広島県大崎上島町生まれ。14歳で被爆。広島大文学部卒業後、私立高を経て県立高教諭として勤務。原爆に関する高校生の意識調査や教材作りなど平和教育に取り組み、県高校原爆被爆教職員の会の初代会長も務めた。詩人、書家で退職後は島根大と広島文教大で書を教えた。広島市佐伯区在住。

ワールド・フレンドシップ・センター(WFC)
 世界から広島を訪れる人々が被爆者の体験を分かち合い、平和を促進する場に―との思いを込め、バーバラ・レイノルズさんが1965年、原田東岷医師と共に創設。2009年からNPO法人。平和学習講座や来訪者へのヒロシマ案内、他国との「平和使節」交換事業などを続ける。

(2024年4月1日朝刊掲載)

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