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[知っとる? ヒロシマ調べ隊] 両被爆地で使われてきた「共通語」

  Q 広島に落とされた原爆は、「ピカドン」や「ピカ」と表現されてきました。長崎でも同じなのでしょうか。

 「『ピカッ』と強烈な光を感じて、『ドーン』というごう音を聞いた」。爆心地から約1・8キロで被爆した梶矢文昭さん(85)=広島市安佐南区=が記憶する、あの日の瞬間です。光は音より速く空気中を進むため、市民は「ピカ」「ドン」の順に聞いたのです。

 では、人々が「ピカドン」と言うようになったのはいつ頃でしょうか。

 昔の中国新聞を読むと、原爆が落とされてわずか約3カ月後の1945年11月8日、「原爆」「原子爆弾」ではなく「ピカドン」と表現した記事があります。47年8月5日付には「世界語『ピカドン』」が載りました。「罹災(りさい)直後は投下された爆弾が不明のまま、市民の間でピカリの一瞬にやられたというところから“ピカ―”と呼んでいたが、ピカリの次にドンと爆風が来たというので誰言うとなく“ピカドン”に変った」

 平和記念公園にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は体験者の手記を集めており、あの瞬間を「ピカドン」と表現した手記をいくつも公開しています。絵本も「原爆の図」の連作で知られる丸木位里・俊夫妻による絵本「ピカドン」(50年)など多くあります。

 しかし海外特派員が外国で書き送った新聞記事だと、45年当時から「原子爆弾」と記され、「ピカドン」はほぼ見当たりません。「ピカドン」は原爆に遭った人が受けた衝撃、痛みなどの実感から生まれた言葉なのでしょう。被爆直後から、連合国軍総司令部(GHQ)の占領が敷かれた戦後にかけては、市民が原爆被害の悲惨さを自由に発信することが制限された時期もありました。

 長崎ではどうなのか、被爆者の宮田隆さん(84)=長崎県雲仙市=に聞きました。2年前の8月9日、平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げ、ウクライナでの空襲警報を「ピカドンの恐怖」と語りました。

 「『ピカドン』は二つの被爆地の『共通語』ではないでしょうか」と宮田さん。「子どもたちに『ピカドン』を経験させないために、核兵器廃絶を訴え続けなくてはいけない」と力を込めます。(新山京子)

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 ヒロシマとナガサキについて平和学習で学びながら「意外と知らなかった!」と思ったことはありませんか。基本的な知識となるテーマを取り上げ、随時掲載します。

(2024年4月1日朝刊掲載)

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