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社説・コラム

[こちら編集局です] 戦中戦後の「江波だんご」 どんな味だった?

食糧難の時代 強烈な記憶

種芋に海藻…「おいしゅうない」

 戦中戦後に広島で食べられていたという「江波だんご」。江波地区(広島市中区)を取材していて、たまたま名前を知った。相当おいしくなかったらしいが、当時を象徴するような食べ物だったようだ。どんなものだったのか。花より団子派の記者が、味を覚えている人、戦後に再現しようとした人を訪ね歩いた。

 「90年生きて、あんなにうまくないのを食べたのはあれきり」。南区の尾崎稔さん(92)が思い返す。市内が原爆で焼け野原になった1945年の暮れ、広島駅近くで売り出されると聞いて大勢が集まった。四角く、すかすかしていて粘りがなかったと記憶する。

 戦前から江波に住んだ笠岡貞江さん(91)=西区=も食べた経験があるという。「ヨモギが入った平べったい小さいコロッケのような形で軟らかかった。それはそれはおいしゅうなかった…」

 そんなにまずいものを誰がどうして作ったのか。郷土の歴史などに詳しい平岡才二郎さん(昨年死去)が書き残した「江波ダンゴ一件」(87年)「青少年協会会報」(88年)を見つけた。それらによると、団子は江波の菓子工場で製造された。43年ごろから作られ、当初は乾燥芋、乾燥よもぎを砂糖、塩で味付けし、大豆の粉をまぶしていたという。

 戦後はこれらの材料が乏しくなり、でんぷんを絞った「カスイモ」、種芋、どんぐりの粉に海藻を加えた。「手に入る材料を適当に混ぜ合わせた珍奇なダンゴ」「広島市の食糧難をいくばくかでも救った貴重な食料」と記している。

 その物珍しさから、これまで何度か再現されてきたようだ。被爆50年の95年、市などが記念事業の一環で開いた展示会でも披露された。責任者だった元市職員の松林俊一さん(80)によると、大学教授が地元で聞き取りをしてサツマイモの粉や乾燥よもぎ、海藻のホンダワラを使って作った。

 松林さんは「現代人には飲み込むことすら難しかった」と振り返る。塩を足すと、来場した高齢者から「こんなにうまいもんじゃなかった」と不評だったという。

 南区の郷土資料館も2006年から原爆の日に合わせたイベントで、試食用の江波だんごを作って配ってきた。材料は米ぬか、片栗粉、塩。学芸員の正連山恵さんは素朴なおいしさを感じてしまうことがあったという。「米ぬかの質が良過ぎるのでしょうか。戦時中の人が感じた味を伝えるのは本当に難しい」

 イベントは新型コロナウイルス禍で近年は中止されている。それを知って、少し残念な気持ちになった。おいしくないと分かっていても、皆が食べてみたくなる江波だんご。戦時下、戦後の食糧難を生き抜いた人たちのたくましさに触れられるからかもしれない。

この記事を書いたのは

治徳貴子(社会担当)
 江波だんごの情報は乏しく、取材に3カ月かかりました。被爆者や戦争体験者がお元気なうちに、当時のことを聞く大切さを改めて感じました。

(2024年4月1日朝刊掲載)

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