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家族伝承者として 語り継ぐ 原爆に6人奪われ孤児に 母の思いを… 京都の谷口さん 23日任命式

 自宅があったのは、現在の平和記念公園(広島市中区)内の芝生広場。谷口(旧姓村木)久子さん(89)=佐伯区=はあの日、原爆に家族6人を奪われ孤児として戦後を生きた。その過酷な半生を肉親として語り継ごう―。長男の敏文さん(62)=京都府宇治市=は今月、被爆者に代わって子や孫が体験を語る広島市の「家族伝承者」として活動を始める。(新山京子)

 「みんなに会いたい―」。小さな遺影を手にした久子さんの目に、涙があふれた。「話してくれて、ありがとう」と敏文さんから言葉をかけられ、目頭を押さえた。

 久子さんは、旧材木町で祖父の繁利さん(77)、父の利博さん(44)、母のツ子(ね)さん(47)、姉の和子さん(16)、兄の正義さん(14)=年齢はいずれも当時=と5人暮らしだった。家業は印章店で、県庁や市役所に卸していたと聞く。

 中島国民学校(現中島小)5年生。郊外に学童疎開していたが、家族が恋しく、1945年7月末に自宅へ戻っていた。8月5日、呉海軍工廠(こうしょう)に勤める兄良平さん(18)も休暇で帰省。その晩の楽しいだんらんは、今も忘れられない。

 翌6日の朝は学校の講堂にいた。「飛行機が見える」と声が聞こえ、校庭に出ようとした瞬間、閃光(せんこう)に襲われた。

 爆心地から約1・1キロ。倒壊した建物から自力ではい出し、必死で逃げた。野宿をして翌朝、1人で自宅を目指したが「足の裏が熱くて熱くて」。爆心地から約330メートルの自宅跡一帯は、焦土と化していた。「相生橋で人々がうめき苦しみ、元安川に多くの死体が浮かんでいた。生き地獄でした」

 6人は自宅や動員先にいたとみられるが、骨らしきものを自宅跡で拾い上げた以外は、遺骨も遺品もないまま。九州の親戚宅にあった家族の写真と、木片に手書きした位牌(いはい)だけが6人の生きていた証しとなった。

 11歳で全てを失った久子さんは戦後、伯母に育てられた。同じく被爆者の敬誠(ゆきのぶ)さん(94)と24歳で結婚し、2人の子どもに恵まれたが、家族にはほとんど体験を口にしなかった。

 敏文さんも「思い出させてはいけないと思っていました」。大学進学や就職で広島を長く離れたこともあり、語り合うことは避けていた。ただ、心の奥では「母の体験を知りたい」との思いを募らせていたという。2020年、被爆者に代わって第三者が証言活動をする広島市の「被爆体験伝承者」の研修を受けた。そんな折、「家族伝承者」の研修制度も始まると知り心が揺れた。「被爆2世としての役割がある」と母に打ち明けた。

 広島と京都を行き来しながら、丹念に聞き取りを重ねた。言葉にならない思いも受け止め、原稿を完成させた。母に渡すと「6人を忘れないでいてくれてありがとう」と喜んでくれた。

 任命式は23日。敏文さんは今後、定期的に原爆資料館などで活動するほか、京都府内の小中学校にも出向きたいという。「母と一緒に伝えていく、という気持ちで子どもたちに語りかけます」

(2024年4月8日朝刊掲載)

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