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連載・特集

時の碑(いしぶみ) 土田ヒロミ「ヒロシマ・モニュメント」から <9> 本川小学校(広島市中区本川町1丁目)

爆心近くの校舎 一部保存

 本川小は、児童文学者の鈴木三重吉(1882~1936年)も学んだ伝統校。漫画「はだしのゲン」の作者中沢啓治(1939~2012年)が終戦後の一時期に通い、同作に「元川小」の名で登場する。

 戦時下は本川国民学校の名で、原爆の爆心地から約400メートルで被災した。「爆心地に最も近い学校」だ。現在の東門からは、本川と元安川の分岐点越しに原爆ドームが見える。

 東門の門柱の脇に、広島市による赤御影石の台座の「原爆被災説明板」がある。短く簡潔な解説文が、かえって強い印象を残す。以下は全文だ。

 「爆心直下に近く、その被害は言語に絶するものでした。校舎は、鉄筋コンクリート造で、焼夷(しょうい)弾や通常爆弾には比較的安全な建物と思われていましたが、原爆のすさまじい爆風圧のため、壁はへこみ、窓枠その他の付属物は飛び散り、外部だけを残して完全に焼失しました。焼け果てた校舎は、被爆者の救護所にあてられ、校庭には死体の山が築かれました。」

 創立は1873(明治6)年にさかのぼる。100周年の記念誌によると、現在地近くの寺の庫裏を借りて造成舎の名で開校。本川小への改称などを経て今の場所へ移り、本川尋常高等小時代の1928(昭和3)年、鉄筋3階建て校舎が完成した。

 同記念誌の年表で、「原爆被災」の項には「人員校具全滅した」とある。校長をはじめ13人の教職員と、疎開せず残留していた約400人の児童のほとんどが犠牲になった。

 外郭だけ残った廃虚同然の校舎で授業が再開されるのは46年2月。木造の校舎を失った近隣の広瀬小、追って神崎小の児童も受け入れた。冬場、鉄枠だけの窓から寒風が吹き抜ける教室のさまは「はだしのゲン」に印象的に描かれている。

 79年の写真に見えるのは、被爆校舎を改修した旧校舎。88年に現在の東校舎へ建て替えられたが、1階の一部や地下室を保存し、被爆資料や解説パネルを備えた「平和資料館」として公開している。2019年の写真は、やや引いた位置からの撮影。東校舎は奥に隠れ、新たに整備された体育館や南校舎が写っている。

 歴史を踏まえ、平和教育には力を入れる。築地陽子校長は「児童が自分の言葉で発信できるよう、平和資料館も活用して一年一年学びを積み重ねている」と話す。(道面雅量)

 被爆地広島の姿をカメラで定点記録し、40年の歳月を画像に刻んだ土田ヒロミさん(84)の連作「ヒロシマ・モニュメント」を月1回、2枚組みで紹介しています。次回は5月3日に掲載します。

(2024年4月6日朝刊セレクト掲載)

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