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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第1部 南米編 <2> 我慢のお守り 保険入れず通院困難

続く病「安静しか…」

 サンパウロ市から東に五十キロ。牛馬が歩くのどかな道を抜けると、人口約二十万人のスザノ市がある。山根一一(かずいち)さん(75)、百合枝さん(76)夫妻の自宅に招き入れてもらった。

 「保険に入らんかったのが悪いと言われればそれまでだが…」。一一さんはやせた首をなでる。病気になっても、我慢して病院に行かないのだ。

薬代などに数万円

 民間健康保険が主流のブラジル。加入していないと病気になるたび、病院代や薬代などに、それぞれ日本円で数万円から数十万円かかる。月一人一万円程度の年金で暮らす二人にとって、容易な額じゃない。

 「若いころは生きるのに精いっぱい。原爆症の情報はないし、不安を感じる余裕もなかった」。かといって高齢の今になって、加入を認めてくれる保険会社はない。

 一一さんは、戦前の移民である。二歳でともにブラジルへ渡った両親を相次いで亡くし、九歳のとき知人に連れられ、古里の高取(広島市安佐南区)に戻った。

 一九四五年二月、百合枝さんと結婚した。その矢先、原爆は落ちた。

 一一さんは、消防団員として自宅の近くで草取り作業をしていた。四、五時間後、ぼろぎれのようになった人たちが続々と避難して来た。「こりゃ大変なことだ」。翌日、消防団仲間を捜して焼け跡に向かった。

 百合枝さんは、腹膜炎を起こして安佐町(安佐北区)の実家に帰っていた。八日になっても帰らない二人の兄を捜し、やはり入市被爆した。

 被爆十年後、幸せな家庭を築く場所に、夫妻は地球の反対側を選んだ。原爆で多くの友を失った広島に、夢や希望は託せないと思ったから。

 養鶏場でこつこつ働いた。二年後に独立した。ブドウ園を始めた。

 三十二年前、墓参りのため一度だけ、夫婦そろって広島に帰ったことがある。「ついでに健康診断も」と頭をよぎった。が、働き盛りの元気だったころ。被爆者健康手帳を取得する手間が、もったいない気がした。ブラジルで暮らす限り、手帳は役に立たない。

 しかし今になって、手帳はまさかの時の安心感とも思う。「こんなに病気するとは思いもせんかったから」

 一一さんは十数年来、気管と肺を患い、すぐ肺炎になる。百合枝さんは三年前、腹部の痛みに耐えかね、スザノ市内の病院で婦人科手術をした。手術費は「日本に行く飛行機代くらい」の八千レアル(約四十万円)。

 苦労して営んだブドウ園は売り払った。

空路も耐えられず

 渡日治療に招かれても、身体の調子のいい時だとそれほど必要性は感じないし、悪い時だと丸一日の空路は耐えられない。だが、ブラジルで病院に通う余裕はない。

 だから、我慢するしかない。子どもの扶養家族として保険に入り、最小限の通院をする被爆者も多い。しかし、山根さん夫妻に子どもはいない。

 「少々のことでは医者にはかかれん。ひたすら安静にして過ごすんよ」

 百合枝さんは左手首に、健康祈願のお守りをくくりつけている。

(2002年7月3日朝刊掲載)

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