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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第1部 南米編 <3> ラジオ体操 健康への執念やまず

「原爆の恨み」重ねる

 午前六時半。聞き慣れた旋律に、思わず体が動く。メトロ(地下鉄)駅前リベルダージ広場。まだ薄暗い日本人町の一角で、真っ白なTシャツが揺れた。胸元で「NIPPON」の文字が踊る。

 日曜を除く毎朝、地球の反対側で、日本のラジオ体操をしている。広場はサンパウロ市中心部にあり、八十人ほどが欠かさず集まってくる。

取り組み四半世紀

 「今日も元気に、頑張りましょう」。声を張り上げたのは、ブラジルラジオ体操連盟の名誉会長を務める細川照男さん(74)。被爆者だ。最初にラジオ体操をブラジルに持ち込んだ。始めたのは一九七八年秋。もう四半世紀近い。

 自宅は、広島市から遠く広島県加計町にあった。農兵隊員として原爆投下の前夜まで、市内の細工町(現在の中区大手町一丁目)で建物疎開作業に従事していた。

 もう一泊して市内で遊ぶことも考えたが、作業が終わったので帰宅し、難を免れた。ただ、八月十日、隊員と竹原市の塩田復旧に向かう途中、入市被爆した。焼け跡の何ともいえないにおいが、今も鼻の奥にある。

 ブラジルに渡ったのは一九六五年、移民としてはやや遅い。過疎化が進む古里を後に、都会に出る人が増えていたころ。三十代後半になり、妻美恵子さんとの間で、子どもには恵まれなかった。そして「あの日の命拾い」が、新天地へと背中を押した。「死んでいたかもしれない人生。夢にかけよう」

 当時七歳だった弟の息子を養子にし、三人でサンパウロ市へ。貿易業を始め、装飾品小売店を開いた。

 商売の夢は間もなく軌道に乗った。しかし、実年に差し掛かるころから病気続き。風邪をひきやすく、免疫力がない。「原爆のせいか」とすぐ考える。

亡き妻からの勧め

 そんな時、「身体が弱くてもできる」とラジオ体操を勧めたのは妻だった。美恵子さんも入市被爆。原爆投下の翌日、兄弟を捜して歩いていた。

 NHKに頼み、カセットテープを送ってもらった。商工会の日本人仲間を誘い、二十四人で始めた。今、ラジオ体操は広場からブラジル全土に広がり、五十一支部に二万五千人の愛好者がいる。

 広場にはラジオ体操の記念塔も建てた。のびやかに体操する人の姿をあしらったデザインは、美恵子さんの発案だった。

 除幕二カ月後、美恵子さんは、帰らぬ人となった。十四年前、五十四歳だった。骨や関節がむしばまれていた。「人の世話にならない。自分の健康は自分で守る」が口ぐせだった美恵子さん。最期の言葉は「(被爆者健康)手帳が欲しい」。

 細川さんは二年前、脳こうそくで倒れ、今も左半身にしびれが残る。それでもラジオ体操だけでなく、歩こう会、グラウンドゴルフとゲートボールをミックスした「マレットゴルフ」で身体を動かす。ブラジル特産の健康食品プロポリスやアガリクスを常備する。

 何かにとり付かれたような健康への執念。理由を聞くと、「原爆への恨み」と言い切った。

(2002年7月4日朝刊掲載)

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