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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第1部 南米編 <4> ふたり生きる 倒れた妻 支える夫

重ねた苦労 心が通う

 「一銭も稼げんのんよ。生きとってもしょうがない」。ジュキア市に暮らす松本政子さん(78)は、口癖のように繰り返す。八年前にくも膜下出血で倒れ、手術した。以来、身体の自由が利かない。夫の武光さん(83)の助けが欠かせない。

 「何をやっても半人前なのに、『生きているだけでいい』と、おむつまで洗ってくれるんよ。早く元気になって主人の役に立ちたい」。武光さんの腕に支えられてテラスに出る。いすに腰掛け、外の空気を吸う。

 サンパウロ市から南西に約百六十キロ。バナナ畑がのどかに広がる人口約一万五千人の町。

 お見合いで婚約し、すぐ徴兵された遠い親類の武光さんを七年待ち、一九四六年に結婚した。たる工場を始めたが行き詰まり、五六年、ブラジル移民の話に乗った。

 二人の子どもを連れ、パラナ州のコーヒー農園で働いた。農業は初めてだった。慣れない仕事に毎日が苦痛だった。

小売店を切り盛り

 十年後、ジュキアに移った。裁縫好きの政子さんは小さな店を構え、洋服や手芸品の販売を始めた。子どものおもちゃ、自転車部品と少しずつ品数を増やした。

 バザール・ドナ・マサコ(政子おばさんのお店)―。そんな愛称で、地域のブラジル人に親しまれている。

 倒れてからは二男夫婦に任せた。

 「こんなに何もできんようになったら死ぬのを待つだけよ」。そんな愚痴もこぼす。働きに働いた政子さんだから、動けない自分がつらい。

 生と死は紙一重だ。

 政子さんの古里は広島市東区牛田である。そこから中区大手町一丁目にあった商社に通勤していた。あの日は、上司に「どうしても着物が縫いたい」と無理を言い、休暇を取っていた。

 青い光とドーンという音。同僚が気にかかり、その日の昼すぎ、会社に向かった。階段を上がる途中だったのだろう。片足を上げたままの死体があった。爆心直下。一瞬に奪われた同僚の命。「自分だけ助かってつらかった。悲しかった」

 倒れるまでは「原爆症が出たら、日本に帰ればいい」と思っていた。でも今、一人で立つことも座ることもできない。「日本どころかサンパウロだって…」

不安は募るけれど

 焼け跡を歩いた経験が不安を募らせる。爆心地から約一キロで被爆し、あの日の夜帰ってきた母は赤い斑点が出て髪の毛が抜け、二週間後に亡くなった。入市被爆した妹も、五年前に白血病で亡くした。

 車の揺れにも耐えられない。サンパウロ市には二年に一度、日本から被爆者健診団が来るが、もう行けそうにない。親類もいなくなった日本に、帰る理由もない。

 弱気になる政子さんに武光さんは「もし逆の立場だったら、政子はもっと良くしてくれるはず。被爆した身体でブラジルまで黙って付いて来てくれた。苦労させた」。いつもそばを離れない。

 戦争に移民。ともに苦労を重ねた夫の優しさも、痛いほどわかる。「やっぱり生きとらんとねえ」。政子さんはそっと、武光さんのひざに手を添えた。

(2002年7月5日朝刊掲載)

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