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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第1部 南米編 <5> 原爆投下責任 医療求め米に直訴

「母国も許せない」

 サンパウロ市内で開かれた在ブラジル原爆被爆者協会の会合に、針きゅう師の岡田公生さん(79)は、古ぼけた一枚の紙を持参した。「まず、これを見てもらえませんか」

 隣町の自宅に近いサンアンドレ市の病院から抜け出してきたという。前立腺(せん)の手術を半月後に控え、腹のあたりから、尿を外に出す尿管のホースを出したまま。

総領事館から返信

 そうまでして記者に見せようとしたのは、一九六六年十一月七日付の一通の手紙。英文だった。

 「残念ながら、放射線の影響かどうかも分からないし、あなたが医療的ケアを受けるお手伝いはできません」

 差出人は、在サンパウロ米総領事館。岡田さんは原爆を落とした米国に、被爆者への医療を求めた。その返信だった。

 当時、日本では原爆医療法が施行され、被爆者健康手帳交付が始まっていた。地球の真反対のブラジルの被爆者に、情報は届いていなかった。

 被爆後、ヘルニアや末しょう神経のまひなどに悩んできた岡田さんは当時、「後々まで自分を苦しめる原爆を、言葉に表せないほど恨んでいる。だから原爆を落とした米国を責めるのが筋」と思った。

 被爆状況をポルトガル語で書いた。総領事館に直訴した。三十六年前だった。

 岡田さんは中国・大連に生まれた。二九年、開拓移民として、一家でサンパウロから北東約千キロのエスピリットサント州ヴィートリアに渡った。

 子どもに日本の教育を受けさせるのが、移民のステータスだった時代。十七歳で単身、父の郷里の和歌山に戻り、旧制中三年に編入した。幼いころから何度も海を渡った経験から、外交官になるのが夢だった。

 だが、戦争が始まる。徴兵され、見習士官として尾道市の部隊に配属された。山口県の柳井港で任務を終えた八月六日朝、山陽線で尾道へ帰る途中、いきなり廿日市市あたりで降ろされ、地理も分からない広島市内をさまよった。がれきの山、黒焦げの死体。人が焼けるにおい…。

 終戦から十年後、ヴィートリアの親元に戻り、通訳などして生計を立てた。日本人には認められない仕事も多く、仕方なくブラジル国籍を取得した。

 日本人との意識を捨てたわけではない。だが、国に兵隊に取られたばかりに広島で被爆し、日本にいるときは納税の義務も果たしたのに原爆の影響も知らされず、国策で移民し、日本にほんろうされ、捨てられた…。そんな思いがぬぐえない。

「理解してほしい」

 「アメリカを恨む。でも母国日本も許せない」

 突然、声を詰まらせた。

 針きゅう師としてこれまで、四万人を治療してきた。だから今の自分の身体の状態はよく分かる。かつての米国へのように、祖国に思いをぶつける元気はない。あきらめが交じる。「とにかく、われわれの実情を知ってほしい。理解してほしい」。やせ細った手で、涙をぬぐった。

(2002年7月6日朝刊掲載)

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