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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第1部 南米編 <6> へき地一人 体験語り寂しさ封じ

「あの日」弔うお経

 サンパウロ市から南西へ車を飛ばして五時間。行けども行けども畑や牧草地の緑が広がる。やっとたどり着いたカッポンボニート市の住宅地に、滝野柳市さん(85)が独り暮らしていた。

 ブラジル人は彼を、日本のドイツ人、すなわち「ジャパネーズアレモン」と呼ぶ。

「直後」に死体処理

 原爆投下直後の広島で死体処理に携わった。以来、全身の色素が壊れ、肌が白くなったという。

 「移民したはいいが、言葉が分からん。私を見て『お前はジャパネーズかアレモンかイタリアーナか』と聞くから、適当に首を振りよったんよ」

 故郷の広島県作木村では色黒だった。「少しでも母国のために役立ちたい」と一九五四年にブラジルに渡る際には、「あちらは日差しが強いから、また黒くなるよ」と周囲に言われた。だが今は、ひざの裏などに残るだけになった。

 日本から被爆者の健康診断に来る医師は「被爆との因果関係は分からない」と言う。ブラジルの医師からは「原爆の影響で色素が壊れているのだ」と言われる。

 五つ年下の妻を三十七年前、四十三歳で亡くした。子どもは十一人。亡くなったり、日本へ出稼ぎに行ったりで、近くには二男一人が残る。

 若いころはサンパウロまでのドライブも平気だった。三年前、渡日治療に招かれ、二十五年ぶりに帰国した。右脚の関節の変形症がひどい。治療から戻ったが、脚は弱くなった。車の運転をあきらめた。市外には出られなくなった。

 糖尿病や肝臓障害に効くと聞き、丹精こめて育てている薬草アルカショフラ(アーティチョーク)を、サンパウロ市内の被爆者仲間たちに届ける楽しみもなくなった。

 「寂しくて寂しくて、いっそ…」

 独りでいると、あの日の光景が頭をよぎる。海軍の兵隊。広島県南部の海岸にいて、その日のうちに広島市内に入った。県北に生まれ、移民で渡っただけに、市内の地理はよく分からない。

 しかし、「この世の地獄よ」。地名は忘れても、目に焼きついた光景は消えない。興奮で声は異常に大きくなる。「死体かと思ったらまだ生きとって、さばりつかれた。でも手を持ったら肉がずるっとむけた。男も女も分からんまま焼かれたよ。むごかった」

 思い出した夜は眠れない。思い出さないで済むためにも人と接し、寂しさを紛らわしたい。

僧りょ役もこなす

 だから、色素が抜けてまだらになった身体を、現地の新聞記者や近所のハイスクールの生徒に遠慮せずに見せる。被爆の体験を語る。地域の日系人の老人会「寿会」の書記も担当する。

 最近、近所の日系人が亡くなった際「お坊さん」として重宝されている。ブラジル国内にある本願寺から袈裟(けさ)を譲り受け、僧りょに変身する。お経を読む。

 知識も経験もないが、人のつながりを自覚できる。「いっぱいの死体を見すぎた。あの日焼いた人たちを供養したい」。唱えるお経に、五十七年前の弔いもこもる。

(2002年7月7日朝刊掲載)

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