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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第1部 南米編 <7> 見かけ元気 「渡日」順番は後回し

優しい母国、切に望む

 海は青く、空も青い。イパネマやコパカバーナの海岸沿いを水着姿が行き交い、リオデジャネイロは冬でも南国風情。

 日系人会館にやって来た被爆者五人の表情も、明るく元気に見えた。

 サンパウロから約四百五十キロ。日本政府が昨年末に示した在外被爆者支援策について説明し、意見を聞こうと、在ブラジル原爆被爆者協会が参集を呼びかけたのだった。

 「元気そうに見えるから困るのよ。日本からお医者さんが来た時に、そう都合良く、重い症状にはなれないでしょう?」

 片山三那子さん(71)が首をすくめる。その肌つやにファッション。確かに、とても七十歳代には見えない。

 リオは一九六〇年までブラジルの首都。日本の大手企業の支社などもあった。そのまま定住した人、事業を起こして新たに移住した人が多いという。片山さんも五八年、柔道講師をしていた夫の仕事について来た。

 北九州市に生まれた。父の仕事で転校した竹原市の忠海女学校時代、対岸の大久野島にあった毒ガス工場で勤労奉仕した。そして終戦直後の焼け野原の広島市内にも送り込まれ、被爆者の救援活動に当たった。

 「当時はまだ子どもでしょ。本当に衝撃的な光景だったわ」

昨年の通院は19回
 いまでも体の調子が悪くなると、あの時の「死体のにおい」を思い出す。それが、自分の体に備わってしまったバロメーターという。

 昨年一年間、網膜剥離(はくり)、手足の関節の痛み、しびれ、心臓の検査などで十九回も通院した。例えば眼科は検査だけで、一回約三万円もかかった。

 二年に一度、日本の医師団が来る。サンパウロだけでなくリオでも、被爆者の健康診断をし、相談に乗る。原爆の話が通じるからうれしいけど、会話に興じるほどに体調がいい時は、あの「におい」は思い出さない。

 しかも法律上、日本の医師団はその場で治療できない。だから、数人程度が後日、渡日治療に招かれる。しかし、「元気そうな人」になかなか順番は回らない。「結局私は、こちらで病院に行くばかり」。片山さんは解せない表情をする。「せめて、保険の掛け金分だけでも手当をもらえたら、みんな助かるのに」

子どもだけが頼り
 長年病気知らずだった広瀬泰子さん(87)も最近、初めて一カ月間、寝こんだ。長女(55)の会社の保険に入っている。「この不況で会社がつぶれたり、子どもに頼れない状況になったら、被爆者はどうすればいいのかしら」

 中区袋町出身。千田町にあった山中女学校で英語教師をしていた。あの日、国からの視察団を待つため、自分は校内に残っていたが、市中心部へ建物疎開に出かけた教え子たちをたくさん亡くした。会社員だった夫の転勤で七三年に移住した。

 「日本人の誇りを持っているの。だから、日本の国が日本の人間と認めない現状なんて、孫には言えないわ」。在外被爆者を被爆者扱いしない母国を恥ずかしいと思う。「世界に優しい日本であってほしいの」

(2002年7月8日朝刊掲載)

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