在外被爆者 願いは海を超えて 第1部 南米編 <8> 不安ネット 同じ境遇の仲間頼り
02年7月9日
母国相手に近く提訴
「いったん知事名で承認した手当を、日本から一歩出ただけで打ち切るなんて、納得いかない」
サンパウロ市から東へ約五十キロのスザノ市に住む堀岡貢さん(72)。熱がこもり始めた。被爆者健康管理手当の証書には有効期限五年とある。しかし、居住地制限は一言も書いてないからだ。
理解できぬ援護法
自宅は市中心部からさらに東へ十五キロほどの小高い山中。コーヒーの木やハイビスカスが並ぶ庭いじりが、やっと手に入れた平穏な日の楽しみ。
福山市松永町出身。八月六日、広島市中区吉島の鉄工所で働いていた。ガラスの破片が身体中に刺さり、気づいた時、がれきに埋もれていた。
宇部市の炭鉱で働いたが、先行きに見切りを付け、六一年、ブラジルに渡った。スザノでは、慣れぬ農業に体が続かず、カマラダ(日雇い労働)などで職を転々とした。
最近まで二十年間、養鶏場に雇われた。五十二歳で腹膜炎を患い、手術を受けた。原爆の影響かどうかは分からないが、以来、ひざやひじの関節に水がたまりやすい。
自宅に招き入れた隣町モジダスクルーゼス市の被爆者小原妙子さん(75)と青崎鶴子さん(78)に、堀岡さんは九四年の渡日治療の時の写真を見せた。復興した広島。「でも、もう行けないだろうな」
わずか一カ月分の健康管理手当を受け取ったのはこの渡日治療の時だ。懐かしい母国だが、気持ちはそう単純ではない。
自分は被爆者であり、日本人。なのに住んでいる国で待遇を隔てる被爆者援護法が理解できない。今年三月、広島地裁に提訴した在ブラジル原爆被爆者協会の森田隆会長(78)に続き、堀岡さんも近く、母国を相手に裁判を起こすつもりだ。「一人でも多く、ブラジルからの声を届けたい」
情報交換の場求め
「モジはねえ、田舎だからねえ」。堀岡さんの車で送ってもらうことになった独り暮らしの小原さんがため息をもらす。「被爆者同士、会話もないし不安なんよ。また遊びに来てもいい?」
爆心地から一・二キロ、旧西天満町(西区)の工場。タイプライターの机の下に頭を突っ込んで一命を取りとめた。同僚はほとんど死んだ。被爆後、髪の毛が抜けた。
移民した半生を「間違っていた」と小原さんはこぼす。雇われ農業で、年金にも入れなかった。しかもモジダスクルーゼス市には、愚痴を言い合う相手がなく、原爆症や母国の支援策について情報交換する機会もほとんどない。話をすることで、暮らしや健康への不安を取っ払いたい。
二年に一度の被爆者の健康診断には、サンパウロまで連れていってくれる人を探して毎回参加する。同じ境遇の仲間たちとのつながりを感じていたいから。
南区の広島駅構内で被爆した青崎さんも「不安」の言葉を繰り返した。帰国して被爆者健康手帳を取得する機会がこれまでなかった。「毎日が不安で不安でね、宗教にも頼ったの」。手帳取得や帰国に保証人が必要か、などとしきりに周囲に聞いていた。
(2002年7月9日朝刊掲載)