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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第1部 南米編 <9> 緑の大地 移民の福祉、常に願う

「ここで生きる」決意

 移住地「ラパス」はスペイン語で「平和」を意味する。かつて広島県沼隈町民が集団で移住し、開拓組合が命名した。

 「南米のパラダイス」「ユートピア」と呼ばれるパラグアイ。首都アスンシオンから約四百キロ南東のラパス市は、地球が丸いと分かるほどに、地平線まで小麦や大豆畑の緑が広がっていた。

 被爆者の上村寛さん(72)は、在パラグアイ広島県人会長を務める。一九五七年、一家で三人以上の働き手が必要という移民資格を満たすため、他人の家族の一員として、単身で移住した。

 以来四十五年、汗を流した。原始林を切り開き、開墾し、家を建て、広島県出身の女性と結婚し、子どもを育てた。電気が通り、今では衛星放送でNHKも楽しめる。とはいえ、まだまだ移住地を暮らしやすくしたい。「被爆者だけでなく、移民全体のためを考えたい」。県人会長の自負を口にする。

不安定な社会保障

 市内にはラパス診療所があり、ひと通りの医療は施される。しかし手術となると五十キロ先の町エンカルナシオンや、その先の国境(パラナ川)を越えてアルゼンチンのポサーダスまで運ばれる。

 医療費や薬代は、ちょっとした風邪でも日本円で数万円。社会保障制度は不安定で、民間の保険もあるが、移住地の日本人には行き渡らない。

 上村さんは現在、ラパス農協を拠点に、医療費負担の共済制度や低金利での貸付制度を充実させたり、年金に代わるシルバー基金が設けられないかと考えている。

 爆心地より七キロ余り離れた川内(広島市安佐南区)の自宅にいた。一瞬の光に驚き、庭に出て、爆風を感じたという。朝、地域の人たちと爆心直下に建物疎開に出かけた父は帰ってこなかった。川内には、そうして父を失った母や子が多かった。自分は山陽中三年。市中心部の建物疎開作業に午後から出かけ、午前の班と交代する予定だった。翌日、父を捜して焼け野原に向かった。

11歳で長男亡くす

 上村さんは、長男を十一歳で亡くしている。二歳で脳膜がんにかかり、眼球を摘出した子だった。「もしか」と遺伝を恐れる気持ちは今もある。ただ、他の四人の子は心配なさそう。

 「空気もいい、水もいい、だから健康にいい。自分の体調だって、将来悪くなるなんて今は考えたくない」と言い切る。

 現在パラグアイで消息がつかめる被爆者は自分のほかに二人だけ。もう二、三人いたが、日本への出稼ぎや南米の他国への移住で消息は途絶えた。「日本の情報も詳しく入らない。知ったからといって周りに被爆者も少ない。何しろ健康なのでそこまで実感がない」と、母国の被爆者援護との違いは、さほど意に介さない。

 ブラジルへの出稼ぎ移民の声もかかった。だが、農業労働者としてより、自ら大地を切り開く農業経営をしたいと思い、パラグアイを選んだ。

 その通りに生きてきた。自分の墓も建て骨をうずめる覚悟をした。「私はここで生きていく」。名実ともに平和なラパスをつくり上げるのが、悲惨な被爆体験を味わった自分の務め、と思う。

(2002年7月10日朝刊掲載)

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