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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第1部 南米編 <10> 核から逃避行 安穏求め「南」選んだ

家族のきずなこそ…

 ラパス移住地の南西に隣接するフラム市は、スペイン語で言う「トランキーロ」な町である。本来は「平和で穏やか」との意味だが、パラグアイでは「こだわらない。なんとかなるさ」の思いもこめる。ラパスより一段と、のどかな表情だ。

 源田賜夫さん(77)と房江さん(70)夫妻が、家族六人で移住を決意したのは、半世紀近く前の一九五四年だった。

「北半球は物騒だ」

 米国が太平洋ビキニ環礁で水爆実験し、第五福竜丸が被災した年。「水爆が落ちたら日本でひとり、二人しか生き残れんって聞いたよ」と房江さんは目を大きく開いて振り返る。「いつ核戦争が起きるか。北半球は物騒でかなわん。日本の反対側だったら戦争はなかろう」

 翌五五年、「トランキーロ」の国へ向かった。戦後、賜夫さんが広島市内で始めた建築業も不景気の荒波にのまれそうだったし、いい機会だった。子どもたちに、あんな恐ろしい目には遭わせたくなかった。

 房江さんは広瀬国民学校高等科二年だった。学徒動員で西区三篠町の靴工場にいた。一瞬でがれきの下敷きになった。横堀町(現在の中区榎町付近)の自宅で、両親ときょうだい五人は犠牲になった。「お母さんは首の動脈が切れ、乳房もないようになっとった。ひどい状態じゃったんよ」

 広島工業専門学校生だった賜夫さんは、安佐北区の芸備線安芸矢口駅近くのトンネル内にいて、その後入市被爆した。爆心直下の中区相生橋付近で建物疎開作業をしていた母は全身やけど。油やキュウリ汁を塗って看病したが、一週間後に息を引き取った。父と一緒に、亡きがらを焼いた。「まきがなくて…」。それ以上は思い出したくない。

 孤児になった房江さんは、生き残った兄と横堀町の焼け跡にバラックを建てて暮らした。兄の友人だった賜夫さん一家と共同生活が始まり、二人は四九年に結婚した。

 九五年の夏。房江さんは、海外被爆者代表として広島市の平和記念式典に招かれた。賜夫さんも同伴して帰国した。式典が終わってすぐ帰るつもりが、房江さんは人間ドックで胃がんが見つかり手術。胃の三分の一を切除した。

子どもたち巣立つ

 あれから七年。日本ほど医療体制が十分でない移住地。「相当病気が進行せんと発見もされんよね」。再発が心配だ。

 手術から五年が経過したとき、古里から渡日治療の話があったが、房江さんは「一人はいや」。被爆者健康手帳を持たない賜夫さんも付き添いたいが、「費用もかかるし、種まきや収穫で、そう簡単にフラムを離れられんじゃろ」。何しろ往復の飛行機代に、年間収入の十分の一かかる。

 赤土の道路、広がる小麦畑。平穏な暮らしに子どもたちは立派に育ち、巣立ちした。いま、五男トーマスさん(32)が設計して建築中の二階建てに三人で暮らす。「もう年じゃし、特別に望みもないよ。『トランキーロ』言うてねえ、夫婦でのんびり無理せんように、健康でおれるようにするんよ」と賜夫さん。

 独特の飾りの付いたキセル風のストロー「ボンビーリャ」で、マテ茶をすする。(森田裕美) =第1部おわり=

(2002年7月11日朝刊掲載)

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