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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第2部 米国編 <1> 許す道 「心の闇」乗り越え

憎悪と挫折の半生

 暴力は暴力を生み、復しゅうを繰り返す。だが、断ち切る道がある。「許す」こと。そう気づいたら心が楽になった―。

 胤森貴士トーマスさん(65)。憎悪と寛容を繰り返した半生は「あの日」にさかのぼる。

8歳で孤児になる

 爆心地から一キロ余、中区広瀬北町で被爆した。町内の自宅にいた両親や祖父母、姉と妹は、原爆に奪われた。

 孤児になった。八歳だった。ごみも草も食べた。思わずだんらんの家の前に立ち止まった時、残飯を投げられたこともあった。

 疎開して生き残った姉や妹とともに、広島県北の親類に引き取られた。十六歳で神戸へ。質屋で働いた。給料をため、ようやく靴を買ったのに、盗んだと疑われた。大量の睡眠薬を飲んだ。目がさめたら、病院。

 父の墓にしがみつき、二日間泣いた。「生き残った人生。無駄にしてはいけない」。無駄にしないとは、肉親を奪った米国への復しゅうに生きること。

 一九五五年。十八歳。移民船に乗りこんだ。

 到着した西海岸のブドウ園で農業生活が始まった。二カ月続けたころ、嘔吐(おうと)し、吐血した。食中毒と思った。だが、病院をたらい回しにされ、検査を受けた。

 原爆放射線による病気だと疑われているらしかった。「今思えば、自分は実験台だった」。脊髄(せきずい)に何度も注射された。電気をかけられた。英語は話せない。痛みに悲鳴をあげ、騒ぐだけ。

 精神病院に移された。裸にされ、防護服を着た人に消毒液でこすられた。悔しかった。監獄のような部屋に半年。

 心ある人もいた。病院にいた看護師メアリーさん。自分を引き取り、仕事も紹介してくれた。恩返ししようと、クリスチャンだった彼女を人生の目標にした。

 大学の神学部に通った。大学院にも進み、牧師になった。十五年間、全米の教会を回った。米国籍も取った。

 最後の教会で、思わぬ言葉。「白人でないと受け入れられない」。信仰は揺らぎ、日本に帰った。父の墓前に再び、立った。

strong>平和活動を始める<

 幼いころに見た夢を思い出した、という。白いチョウに導かれ、チョウはツルになり、羽ばたいていく。行方はきのこ雲ではなく、まばゆい光。「貴士よ、お前の将来を見せてあげるよ」。父の声のように思えた。

 復しゅうばかりに気を取られ、自分で自分の心の暗闇に落ち込んでいた―。

 「許そう」

 再び米国へ。八五年から平和活動を始めた。手記や詩を書き、証言活動をした。羽ばたくツルをコラージュした。

 八七年ごろから視野が狭くなった。視力は今、かすか。胃の切除、腸の摘出と、ここ五年で四回も手術した。

 「自分の心にゆとりがなければ他人の平和は望めない。それが、私が私の人生で気づいたこと」

 サンフランシスコ北東のラファイエットに一人暮らす。盲導犬ミチコが、やさしく付き添う。

    ◇

 原爆を投下した米国にいま、千人余の被爆者がいる。移民の歴史は古く、古里に帰国して被爆したり、戦後結婚した米兵と海を渡ったりと、さまざまな人生をそれぞれが生きてきた。南米に続き、米カリフォルニア州を訪ねた。(森田裕美)

(2002年7月13日朝刊掲載)

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