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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第2部 米国編 <2> 定住の地 「国籍」 古里は遠く

頼れるのは自分だけ

 カリフォルニア州政府と仏教会が運営するサンノゼの独居高齢者用アパート「フジタワー」の受付で、藤岡ノブコさん(76)は笑顔を絶やさず、てきぱき動き回る。

 十二年前まで勤めた電力会社をリタイアした後、試しに半年ほど古里に帰ってみた。広島県上下町。だがどうも、なじめない。引き揚げた。「人生の半分以上がこっちでしょ。やっぱり無理よ。友人もいないし」

8年前に心臓手術

 広島市中区千田町の広島赤十字病院で看護婦をしていた。診療中、一瞬の熱線でやけどをした。足の踏み場もないほど被災者が運ばれて来た。しばらくして自分の左腕にウジがわいた。殺菌効果があると聞いたお茶がらを巻いた。やけどのあとは今も残る。

 悲惨な体験を思い出したくなくて、看護婦は辞めた。東京に出て働いた。米国人技師と出会い、結婚した。六〇年、一緒に米国に渡った。

 夫は十六年前に亡くなった。子どもはいない。頼れるのは自分だけ。週五日は老人介護のホームヘルパーで働き、それ以外はフジタワー受付。八年前に心臓のバイパス手術をしてから、いつも身体が気がかりだが、「働けるうちはね。養老院だって高いのよ」。月二十万円以上かかるらしい。

かなわぬ渡日治療

 隔年でやって来る広島からの医師団に「甲状腺に異常がある」と診断された。日本政府が設けた渡日治療の制度もある。

 「ただねえ」。不満をこぼす。老いた被爆者はそう簡単に海を越えられない。心臓が心配だ。日本政府の「若い人」たちに、こう言う。「何を考えているのでしょうか。あと十年もすれば被爆者は少なくなるのに…」

 米国で夫に先立たれた女性被爆者で、日本国籍を取り戻そうとする人は多い。被爆者援護の制度はなく、米国人でいるメリットがないから。逆に、藤岡さんのように、古里をふっきると、米国籍に不自由は感じない。

夫の死後、米国籍へ

 フジタワーの近くに住む川崎和枝さん(72)は日本国籍のままだったが、昨年四月、夫が亡くなった後、逆に米国籍を取った。二人の子どもと同じ方が、何かと便利だからだ。

 中区吉島の自宅に帰ろうとして原爆投下の翌日に入市被爆した。戦後、急激に白血球が減り、足の裏まで斑点が出た。

 戦後結婚した夫は、戦前の移民二世の子だった。五四年、一緒に米国へ。「帰米三世の妻」という立場である。

 結婚した時、「なぜ」と周囲から反対された。米国育ちの夫は、戦後もなお敵国人と見られていた。そして今、日本にいる妹から、被爆者は医療費無料と聞き、うらやましく思うこともある。

 半面、「貧しかった日本を捨てた」「日本に税金を払ってないだろう」と言われると、「解せない」と思う。自分は豊かな米国にあこがれて海を渡ったわけではない。「どこにでも主人についていくつもりだったわ」

 心は日本人。国籍を失えばなおさら、古里は恋しい。けれど、一人ではもう日本に暮らせない。「完全に病気が治るなら一度だけ日本に帰り、またここに戻りたい」。それが今の望みだ。

(2002年7月14日朝刊掲載)

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