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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第2部 米国編 <4> 世話役 尽きない悩み相談

「いたわり」を手紙で

 サンフランシスコにある集会所ハミルトンシニアセンターに週一回、日系のお年寄りたちが集まる。ボランティアとして欠かさず参加する松本幸子さん(67)は、ビンゴゲームの相手をし、お菓子やお茶を配っていた。  被爆者である。でも「私のことはいいのよ」。自分の苦労話は嫌がり、そばのお年寄りと世間話に興じる。

 こぢんまりした近くの自宅に案内してもらった。二十五年前に亡くなった夫の思い出が詰まる。唯一の財産という。二階を他人に貸している。

 「見ての通りこんな生活」。話題をそらし、全米の被爆者から届いた手紙の束を持ってきた。

約90人の連絡調整

 米国原爆被爆者協会(友沢光男会長)の世話係。担当は、イリノイ、ケンタッキー、フロリダ州など東海岸や中部を含め二十六州と首都ワシントン、それにメキシコで暮らす被爆者の合わせて約九十人。連絡調整を受け持つ。

 毎月、協会の会報を郵送する。頻繁に礼状が届く。各地の様子や近況報告だけでなく、思いを吐き出すかのように、切羽詰まった相談がつづられてくる。

 「うちの州では、心臓病の薬がメディケア(高齢者健康保険)の対象から外れ困っています」

 「足がはれて歩けなくなりました」

 「ハワイにいる被爆者の妹が亡くなりました。日本では遺族に葬祭料が出ると聞きます。申込書をもらえますか」

 在外被爆者が亡くなっても葬祭料は出ない。そうした日本国内並みの援護がないことに、手紙でこう訴えてくる被爆者もいる。「政府は『海外から一票を』と在外選挙を呼びかける。一方で海外に住む被爆者は出国と同時に権利を失う。おかしいと思いませんか」

 松本さんは、いたわりの言葉を返事にしたためる。日本政府あての要望は協会幹部たちに伝える。その他の質問は、関係先に問い合わせるなどして世話を焼く。

 古市(広島市安佐南区)生まれの古市育ち。八月七日、中学一年の兄を捜して母と一緒に入市被爆した。国民学校五年生。兄は八日、似島(南区)で亡くなったと後で聞いた。二世の夫と日本でお見合い結婚し、海を渡った。五六年だった。

 「お金が転がっていると思っていたのよ」。言葉が分からず、働くのに困った。二世の夫も日本育ちで、不自由さは変わらなかった。夫は米国内で出稼ぎをした。裕福な家庭の掃除を二人でした。露店でアクセサリーを作って売った。

 今もボランティアの合間に、ハウスキーピングのパートに出る。時間を無駄にしない。

広大な土地ネック

 東西で五時間も時差がある広大な国。日本からの隔年の医師団は西海岸を回るため、東部の被爆者にとっては、身体的にも経済的にも参加は厳しい。一つの州に数人という地域も多く、悩みを相談する相手は少ない。

 「会って話をするだけでも随分違うはず。何かいい方法がないかしらねえ」。便せんに向き合う。

(2002年7月17日朝刊掲載)

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