在外被爆者 願いは海を超えて 第2部 米国編 <8> 恩返し 生かされた命、痛感
02年7月21日
「今度は私たちの番」
ケロイド渡米治療
一九五五年、ケロイド治療に招かれ、原爆を投下した米国へと海を渡った女性たちがいた。当時は「ヒロシマ・ガールズ」などと呼ばれた。
笹森恵(しげ)子さん(70)もその一人。「年を取った今こそ、被爆者は手を取り合い、思いを伝えなくちゃ。平和な世界を訴えないと。でないと何のために私は生き残ったの?」
ロサンゼルス近郊マリナデルレイに一人で暮らす。ベランダの外にヨットが浮かび、アザラシが桟橋に寝そべっている。
米国の被爆者組織は二つある。サンフランシスコ中心の米国原爆被爆者協会と、そこから十年前に分離独立したロサンゼルスやハワイなどの米国広島・長崎原爆被爆者協会。組織間の交流はなく、支援を待つ被爆者には戸惑いもある。
笹森さんは、これまで日系人や被爆者仲間とかかわる機会が少なかった。被爆者組織からも外れ、被爆者支援の問題にもかかわれなかった。
5日目に父が発見
広島女子商業学校の一年だった。建物疎開作業で中区鶴見町付近にいた。気が付くと辺りは真っ暗。意識があるのかないのか分からないまま、歩いて南区の段原国民学校へ。
ひん死で横たわっていた。五日目に父が発見した。顔も手も大やけど。目も開かなかった。ようやく、ガラスの破片に映った自分の顔を見たのは、それから何カ月かたってからという。「自分だと思わなかった」。その時の感情は、今でも何とも言い表せない。
五四年、「サタデー・レビュー(土曜評論)」主筆ノーマン・カズンズ氏(一九一五―九〇年)が広島を訪れた。ケロイドの残る女性被爆者を整形手術のためにニューヨークの病院に招く運動を提唱した。米国の市民が親代わりになる精神養子運動も呼びかけた。米国から孤児への送金が相次ぎ、広島市民を励ます手紙もたくさん届いた。
笹森さんはカズンズ夫妻の精神養子になった。手術から三年後の五八年、看護婦の勉強のため再渡米した。
今、健康で何も心配はないと言う。「ありがたいことよ」。だから、病に苦しむ周囲の被爆者に、何かできないかと日々考える。
ばらばらでなく…
一つは、被爆者を無料で治療する専門の医療機関を設けること。すぐには難しいだろうから、既存の病院を指定医とする方法もあるかもしれない。あるいは、寄付を募って被爆者医療基金を設けたらどうだろうか。
協会の分裂で被爆者がばらばらになるのではなく、どういう方法がみんなにとって良いのか、手を携えて考えたい。そう熱っぽく語る。
かつてカズンズ氏の呼びかけは、原爆投下国の市民を動かした。氏の後ろ姿を見ながら歩き、心ある人たちがたくさんいることを痛感してきた。「今度は私たち。助けを求めるだけじゃなくて動かなくちゃ」。笹森さんはそう考える。
「私はあの日、生かされた。この感謝の気持ちだけは、どうしてもお返ししたいの」
ベランダ越しに届く潮風に問いかける。被爆者と市民の願いが、この太平洋を渡り、再び行き来できないだろうか。(森田裕美)=第2部おわり
(2002年7月21日朝刊掲載)