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連載・特集

緑地帯 佐藤正治 音楽のミューズとともに④

 2022年のサッカー・ワールドカップでアルゼンチンを優勝に導いたメッシの活躍ぶりを見て、多くの人はアルゼンチンの底力を感じたに違いない。

 私はその前にもアルゼンチンの底力を体験したことがある。アルゲリッチが1999年、母国のアルゼンチンでピアノコンクールを始めると聞き、ブエノスアイレスに向かった。当時のアルゼンチンは不景気で、失業者の多くが臨時のタクシー運転手になっているとのこと。正規のタクシーは車体の前後の扉に数字が多く記されているので、それ以外のタクシーは利用しないように、と忠告されていた。

 コンクールの空き日に妻と一緒にタンゴショーを見ようとタクシーを探したのだが、やっとつかまったタクシーは車体に記されていた数字が少なかった。行き先を了解した運転手は走り出してしばらくすると車を止めて小さな花屋に向かった。

 客を乗せながら、家族の買い物をするけしからん運転手だと思い込んだ私たちは「やっぱり悪いタクシーにつかまった」と後悔した。戻って来たら文句を言ってタクシーを降りようとした矢先「奥さま、すてきな夕べとなりますように」と、買ってきた花束を妻に渡したのだ。失業して運転手になったかもしれないこの男性が、少ない手持ちの金を乗客のために使った。日本では決して想像できない行為に驚き、感激した。この運転手の心の豊かさと相手への思いやりも、アルゼンチンの底力だと思う。(KAJIMOTOプロジェクト・アドバイザー=東京)

(2024年4月12日朝刊掲載)

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