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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第3部 韓国編 <1> 貧困の連鎖 治療より生活心配

子も苦悩 すがる援助

 終戦までの三十五年間、朝鮮半島は日本の植民地だった。多くの人が職を求めて日本に渡り、あるいは徴用工として強制連行され、ピカに遭った。今、韓国で確認されている被爆者は約二千二百人。在外被爆者が最も多い隣国を訪ねた。(荒木紀貴)

 「生活が苦しい。助けてもらえないだろうか」

 韓国南部の農村地帯、慶尚南道陝川郡に暮らす朴奎黙さん(84)は六月初め、韓国原爆被害者協会陝川支部を訪れ、支部長に訴えた。しかし、「今は資金の余裕がない。待ってほしい」と慰められるだけだった。

活路求め43年来日

 原爆の熱線で、全身を焼かれた。ケロイドで覆われた左腕は、いまだにまっすぐ伸ばせない。やけどのあとは顔から足先までに及ぶ。「夏になるとかゆくてつらい。ウミも出てくる」。膨れ上がった傷跡を無念そうに見つめた。

 広島に渡ったのは二十代半ばの一九四三年。結婚し陝川で農業をしていたが、生活は厳しく、妻を残して新天地に活路を求めた。広島駅北の二葉山のふもとに暮らし、建設現場で働いた。

 朝。防空ごうを掘る作業に駆り出されていた。「落ちてきたぞ」。同僚の叫び声で空を見上げた。落下傘が見えた瞬間、ピカッと光り、意識を失った。

 近くの収容所に運ばれた。廿日市市の叔父が来てくれたが、医者も薬も足りない。全身のやけどは、サツマイモの汁をつけても、いつまでも痛みは引かなかった。

 数カ月後、汽車と船を乗り継ぎ韓国に戻った。足と手は引きつり、家を出られない。着の身着のままの帰国だったから、医者に行く金はない。「夢も希望もなかった」。妻がわずかの田と畑を耕して生計を支えた。

 三男三女を授かった。小学校に行かせるのがやっとだった。子どもたちは卒業すると就職先を探した。何とか釜山市の鉄工所などに勤めた。危険な作業を強いられ、二男は指先を、三男は腕を労災事故で失った。

 貧困は、子の世代にも連鎖するものなのか。親は、悲しく、切ない。

広島2万5000人以上

 韓国併合後、朝鮮総督府は土地調査を進めた。書類の不備や未申告などで、多くの農家が土地を失い、小作農になった。生活の苦しさに耐えかねた人たちは職を求め日本へ。軍需工場があった広島、長崎で、朝鮮・韓国人が被爆した。「広島・長崎の原爆災害」(一九七九年)によると、広島で二万五千―二万八千人、長崎市で一万千五百―一万二千人。その多くの人は、帰国できても、財産は灰にしていた。

 「少しでも援助を受けられないか」。そんな一心で朴さんは、六八年に設立された被害者協会に入った。八〇年代、日韓政府が始めた渡日治療で、広島を再訪した。が、左腕のケロイドの除去手術は決心がつかなかった。痛みを味わうのは、もうこりごりだった。

 今、妻と二人で暮らす。成人した子が六人いるため、生活保護の対象にならない。子どもたちの仕送りに期待もできない。年金もない。

 九三年までに日本政府が韓国側に支出した四十億円で、毎月約一万円の手当が支給される。頼りはそれだけ。「年を取った。もう治療はいい。生活だけが心配」。言葉少なに訴えた。

(2002年7月22日朝刊掲載)

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