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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第3部 韓国編 <2> 恋し広島 今も募る望郷の念

治療差別で日本提訴

 ♪さらば広島 また来るまでは しばしの別れ 涙をしのぶ♪

日本語の歌声響く

 庭先で李在錫さん(69)は、広島の方角である東南東を向いた。韓国南部の慶尚南道陝川郡。目をつむり歌う。「私は日本人だったんですから」。棚田に、日本語の歌声が響き渡る。

 広島に生まれ育った。両親が昭和初め、職を求めて渡っていた。日本の教育を受け、ハングルはほとんど知らずに育った。一九四五年、広島商業学校に入学し、卒業後は銀行員になりたいと夢見ていた。

悲劇に遭うまでは…。

 爆心地から約一・七キロの西区三篠本町。家にいて吹き飛ばされた。唇が割れるように切れた。一歳の妹は、下敷きになって死亡した。父は左官の仕事に出ていて体半分にやけどをした。

 李さんは日本に残りたかったが、父は死期を予感したのか、「祖国に戻りたい」と言った。年末に一家で韓国へ。翌年二月、父は息を引き取った。

異国のような祖国

 十四歳だった。母が農家の手伝いをして一家を支えたが、生活は苦しく、学校には行けなかった。ハングルは分からず「日本に帰れ」とののしられた。唇の傷はケロイドになっていた。「原爆の土産か」とも言われた。「泳いででも日本に帰りたい」。つらいことがあるたび、「広島」が頭に浮かんだ。

 韓国の被爆者には、今も日本を古里と感じる人が少なくない。仕事を求めて日本に渡った親の二世たちだ。幼少期を広島で過ごした彼らにとって、祖国であるはずの韓国は、「異国」のようでもあった。

 八六年、李さんに広島再訪のチャンスが訪れた。渡日治療の一団として、四十年前は焼け野原だった街に立った。ビルが建ち並んでいた。ただ驚いた。

 その後、唇のケロイドがもとで原爆症の認定患者に認められた。渡日治療を重ね、無料で除去手術を受けた。病気が治った認定被爆者に支給される月額五万円程度の特別手当も滞在中は支給された。昔話をしながら楽しい時を過ごした。

悲しい現実の落差

 そんな李さんは今、「心の祖国」日本を相手に闘っている。認定被爆者も韓国に戻ると、被爆者援護法は適用されない。特別手当も打ち切られる。「特別な治療が必要と認めた被爆者でさえ差別するのですか」。そう問い掛けたくて、手当支給を求める裁判を昨年九月、大阪地裁に起こした。

 「日本は差別をしない国だと思ってきたのに…。それが悔しい」。日本を愛するがゆえに一層、納得ができない。

 今も時々、広島の夢を見る。あこがれた銀行員として広島を駆け回っている自分が出てくる。目が覚めると現実との落差に気持ちが落ち込み、農作業が手につかない。

 そんな時には庭先に出て、東南東を向く。

 ♪さらば広島…

(2002年7月23日朝刊掲載)

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