在外被爆者 願いは海を超えて 第3部 韓国編 <3> 強制連行 痛む体 苦難の人生
02年7月24日
「償い」阻む時効の壁
一面に水田が広がる韓国北部の京畿道安城郡。自宅にたたずむ李炳穆さん(78)が、しびれの消えない手のひらでクルミをこすり合わせていた。
「神経を刺激すると、痛みが和らぐから」
薬もなくただ我慢
両手を痛めたのは異国の広島だ。日本が朝鮮半島を統治していた一九四四年八月、突然の徴用令状が届いた。妻と一歳の長男を残したまま、江波町(中区)にあった三菱重工業広島造船所に強制連行された。寮と工場を往復し、朝から晩まで働いた。
あの朝、寮にいた。突然の爆風で吹き飛ばされ、飛び散るガラスが両手に突き刺さった。逃げようと二階から飛び降り、腰を強打した。薬も医者もなく、痛みを我慢するしかなかった。
「祖国に戻ろう」―。翌朝、同僚たちと西に歩き始めた。下関から汽車に乗り博多へ。九月半ば、韓国の釜山市に着き、妻子の待つ古里に戻った。米を作り、農家の暮らしを取り戻そうと思っていた。
恨みと怒りの日々
が、思わぬ事態が待っていた。強制連行される前に小作していた農地は別の人が使っていた。日雇いの畑仕事をしようにも、広島で痛めた両手は癒えない。右手の親指は力が入らず、はしさえ持てない。腰を打ったせいか脊髄(せきずい)も痛んだ。妻が代わりに働いた。
「小作農はしんどかったけど、秋に実った穂を見た時のうれしさは格別だった。帰国したら田んぼを広げようと思っていたのに…」。夢はついえ、大半を家で過ごした。手の傷がうずき、脊髄が痛む日は、恨みと怒りが一層増した。
同志会つくり運動
「強制連行さえなければ」。三十三歳で入信したキリスト教が心の支えだった。
韓国では六八年、韓国原爆被害者協会が発足した。六年後、三菱重工業の元徴用工たちは在韓被爆者三菱同志会をつくり、未払い賃金を求める運動を始めた。貧しい小作農の若者が多く、帰国後も厳しい生活を強いられていた。李さんも加わった。
運動を進める中で、日本では国が被爆者を援護していると知る。「日本に働き掛ければ、何か助けてもらえるかも」。九〇年代に入り、同志会の会長に選ばれ活動を引っ張った。
ところが、期待はまたも裏切られた。三菱重工業に未払い賃金を請求してもなしのつぶて。元徴用工五人と、一人平均約八万円の未払い賃金と慰謝料を求めて広島地裁に提訴した。次々に仲間が裁判に加わり、原告団は四十六人に増えたが、九九年三月の判決で訴えは時効を理由に全面的に退けられた。
李さんらは控訴し、広島高裁で審理が続く。原告団の十四人は道半ばで亡くなった。自身も腰と足の痛みが増すばかりで会長を退いた。
「日本に連れて行かれ苦しみばかりの人生だった。せめて裁判に勝ち、亡くなった徴用工の遺族に慰謝料をあげたい」
クルミをこすり、天井を仰いだ。
(2002年7月24日朝刊掲載)