在外被爆者 願いは海を超えて 第3部 韓国編 <4> 57年の空白 手帳申請、証人なく
02年7月25日
当時2歳 父母ら他界
被爆から五十七年目の今年三月、韓国南岸の馬山市に暮らす宋栄太さん(59)が、被爆者健康手帳の申請書類を広島市役所に送った。原則として手帳交付に必要とされる二人の証人や、証人代わりになる資料などは見つからないのだが…。
知人捜しも難しく
二歳で被爆したから記憶はない。父も母も兄も既に他界している。被爆の状況を詳しく聞いたことはなく、被爆地の特定もできない。「いまさら当時の知人を捜すすべはない。何とかならないだろうか」。無理は承知だが、願うような気持ちだった。
渡日治療への道を開く手帳。韓国原爆被害者協会の二千二百人のうち、持っているのは約八百人。日本政府は今後三年間ですべての在外被爆者に交付する方針だが、実際に証人を捜すのは大変な作業だ。
「食べていくのが精いっぱい。原爆のことを考える余裕はなかったから…」。今まで申請しなかった理由を宋さんは説明する。
全身やけどの母は被爆の半月後に死亡した。父と兄の三人で韓国に戻った。病気がちだった兄は七年後に亡くなった。小学校に入学したが、朝鮮戦争が始まり、避難するために退学した。戦争が終わると、生活のため、復学せずに働いた。
父、多くを語らず
爆風に飛ばされたのが理由かどうかは分からないが、幼少から右足が悪く、歩くのが不自由だったという。腰の痛みもあり、力仕事は難しい。建設現場の手伝いなどを探しては生活費を稼いだ。
結婚後は、左官として六人の子を養うため働いた。父は数回、被爆の話をしたが、家族を失った体験を多くは語ろうとしなかった。
そんな父も一時は、韓国原爆被害者協会に入っていた。八八年、協会からはがきが届いた。会員を再登録するため、馬山市の旅館に集まるようにという内容だった。
体調を崩していた父は「恩恵もないのに、うるさいことばかり言う」。会合には行かなかった。原爆の知識がなかった宋さんも、関心は持たなかった。家族と協会を結ぶ糸は切れた。六年前、父は亡くなった。
その後、右足の股(こ)関節に痛みが続いた。医者に人工骨移植を勧められ、手術した。痛みは引いたが、疲れやすくなり、仕事は毎日できなくなった。
「体は弱るばかり」
近所の被爆者から手帳の存在を聞いたのはこの時期だ。手帳があれば日本で治療が受けられる。手帳を取って協会に入れば、日本政府が拠出した四十億円から毎月約一万円の手当も支給される。「体は弱るばかり。子どもに迷惑かけられないし、助けてほしい」。協会から届いた父あてのはがきを添え、広島市に提出した。ただ、協会には父の存在を示す書類は残っていなかった。
申請から四カ月後の今月初め、馬山市の協会慶南支部に国際電話がかかった。受話器の向こうは広島市原爆被害対策部の職員。「証人か確実な記録がなければ手帳交付は難しいのですが…」
立ちはだかる壁は高い。
(2002年7月25日朝刊掲載)